烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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総持寺 巌﨑建造の墓

 囲碁史会のメンバーと久しぶりに、西東京市田無町の総持寺にある方円社3代目社長・巌﨑建造のお墓参りに行ってきました。
 以前、紹介した際には、子孫の方から連絡をいただき、お会いして色々お話しをお聞きすることができました。
 巌﨑建造は、元の名を海老沢健造といい、多摩郡田無村の出身です。安井算知門下となると安政4年(1857)16歳で初段。その5年後には五段に昇段し、安井家四天王の一人と称されるようになります。

山門
山門

 明治に入ると、東京府消防指図役、神奈川県始審裁判所書記などの官職の道に進み、主に地方を廻りますが、明治15年(1982)に東京勤務となったのを機に、方円社の手合にも参加するようになります。この頃、絶家となっていた巌崎家を継ぎ名字を変えている建造ですが、家を継ぐにあたり、名字を「崎」(右上が”大”)から「﨑」(右上が”立”)に変えたそうで、ただ家を継ぐのではなく、自分が新しく興していくという思いを込めていたのかもしれません。この話は子孫の方に直接聞いたのですが、色々な資料や書物でも、「崎」(右上が”大”)の字が使われていることが多く、私も以前のブログ紹介では間違った字を使っていました。

本堂
本堂

 建造は、明治25年に請われて方円社の副社長となり、明治27年(1894)に七段。明治32年(1899)には中川亀三郎の後を継いで三代目社長に就任し、明治39年(1906)に八段に昇段しています。本因坊秀栄と並び、明治期の囲碁界をけん引していった建造は、大正元年(1912)に二代目中川亀三郎(石井千治)に社長を譲り引退すると、翌年73歳で亡くなっています。

巌﨑建造の墓
巌﨑建造の墓

 そういえば、巌﨑建造について、明治33年に出版された「維新後に於ける名士の逸談」という本で、次のような記述を見つけました。
 巌﨑建造が、まだ官吏をしている時に、公用があって埼玉県の地方裁判所に行ったことがあり、用事が済んだ後に、ある家に立ち寄ると、裁判所の官吏や県庁の職員が集まり、盛んに碁を打っていたそうです。
 対局を傍で見ていた巌﨑は「次は君が打ってみたまえ」としきりに勧められたものの、ニコニコ笑うだけで応じなかったため、一同は、巌﨑は囲碁を知らないのだなと思い、各自が囲碁の自慢話を始めたそうです。後に巌﨑が全国でもトップレベルの碁打ちであることを知った一同は冷や汗を流したとの事です。

 現代でもありがちな話ですので、皆さんも気をつけましょう。

巌﨑建造の墓
巌﨑建造の墓

東京都西東京市田無町三丁目8番地12号

【関連記事】 巌崎建造の墓

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方円社初段 赤堀秀時。再訪問

 今回、久しぶりに名古屋市千種区の平和公園にある明治期の碁打ち、赤堀秀時の墓にもお参りしました。
 尾張藩士で、幕末は国事に奔走し、晩年は囲碁や俳句を楽しみながら余生を送ったと言われています。
 秀時の名は、方円社が明治27年に発行した「囲碁段級人名録」に、初段として記載されています。
 亡くなったのは明治39年(1906)で、墓石には「棋楽亭社中有志者建之」と刻まれていました。
 秀時の墓の隣りには、長男・秀堅の墓がありましたが、囲碁と関係あったかは分かりませんが、亡くなったのは明治31年で享年37歳。秀時より先に亡くなり墓は秀時が建立したと記されていました。

赤堀秀時の墓
赤堀秀時の墓

戒名は『秀林院響玉日時居士』
戒名は『秀林院響玉日時居士』

棋楽亭社中有志者建之
棋楽亭社中有志者建之

囲碁段級人名録(明治27年)・初段
囲碁段級人名録(明治27年)・初段

秀時の長男、秀堅の墓
秀時の長男、秀堅の墓

愛知県名古屋市千種区平和公園 長栄寺墓地

【関連記事】 明治期の碁打ち 赤堀秀時

| 方円社 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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再び方円社跡である虎ノ門ヒルズへ

 愛宕町の旧方円社跡に続いて、以前紹介した愛宕町の次の跡地である虎ノ門ヒルズへやってきました。
 明治43年(1910)に、現在、虎ノ門ヒルズが建っている芝区桜川町2番地に方円社は移転していますが、その二年後に巌埼健造は引退を発表。後任の四代目社長に二代目中川亀三郎(千治)が選ばれています。
 桜川町2番地は、けっこう広い範囲となるので、その中のどこに方円社があったかは特定できていません。

虎ノ門ヒルズ
虎ノ門ヒルズ

虎ノ門ヒルズ
虎ノ門ヒルズ

大正元年の地図
大正元年の地図。赤枠の中が桜川町2番地。

虎ノ門ヒルズのテラス
桜川町2番地であった虎ノ門ヒルズの北側のテラス

東京都港区虎ノ門1丁目26

【関連記事】
 方円社の会館跡が東京の新しいランドマークに
 虎ノ門ヒルズは方円社跡

| 方円社 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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明治40年前後の方円社跡

 明治以降、囲碁界の一翼を担ってきた方円社ですが、その場所は、度々変わっています。
 明治32年(1899)、巌埼健造が3代目社長に就任すると方円社は下谷区徒町(台東区)に移転しています。その場所は巌埼が社長に就任する以前から巌埼の住所として段級録に記載されている事から、元々巌埼の碁会所だったと考えられます。
 その後、明治39年(1906)に方円社は芝区愛宕町二丁目5番地に移転し、披露会が浜町の「日本橋倶楽部」で行われたと記録されています。
 愛宕町二丁目5番地は、現在の西新橋の愛宕神社前交差点の近く、慈恵大学西新橋キャンパスの北側に位置します。大正元年の地図を見てみると5番地は3区画に分かれていて、北側は学校でしたので、方円社は南側の2区画のどちらかにあったと思われます。現在の場所で言うと、「ParkCube愛宕山タワー」というマンションの角の交差点付近か、その東側、現在、慈恵大学西新橋キャンパスの再整備で、新病院と新大学2号館が建設されている場所にあたります。

愛宕町2丁目(大正元年)
愛宕町2丁目(大正元年) ピンクのエリアが5番地。

 明治39年(1906)の方円社移転の披露会当日に巌埼健造は八段に昇段。その約一月後には、本因坊秀栄が九段(名人)となっています。巌埼は秀栄に争碁を申し込みますが、秀栄は田村保寿を代理に立てると申し出たため苦笑して撤回したそうです。
 この場所に方円社があったのは4年ほどで、その間、引き続き巌埼が社長を務め方円社の運営は安定していました。しかし、本因坊家では明治40年に秀栄が亡くなり、跡目争いが発生。秀元が再襲名し、翌年本因坊秀哉が家督を継承するなど、囲碁界全体としては大きく時代が変わっていった時期でした。

愛宕神社前交差点
愛宕神社前交差点

方円社跡付近
方円社跡付近。白い塀は新病院と新大学2号館の建設現場です。

東京都港区西新橋3丁目18付近

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方円社解散の宴が開かれた『松泉閣』を再訪

 囲碁史の取材で久しぶりに五反田にあった料理旅館「松泉閣」の跡地を訪れました。
 明治以降、囲碁界をけん引してきた方円社が、関東大震災を契機に家元側と合流し「日本棋院」が設立される事となったため、大正13年(1924)4月22日に「松泉閣」にて元社長、中川亀三郎(二代目)ら23名が記念の宴を開いたそうです。
 なお、先日、ありし日の松泉閣の写真を手に入れました。松泉閣は大正時代に開業した料理旅館で、庭が自慢だったようで絵葉書が販売されています。

かつての松泉閣
かつての松泉閣

現在の松泉閣跡
現在の松泉閣跡

【関連記事】 方円社終焉の地は五反田

「松泉閣」跡地:品川区東五反田2丁目9 ブラウドタワー東五反田

| 方円社 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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