烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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東京大学発祥の地 学士会館

 千代田区神田錦町の「学士会館」正面玄関の前に「東京大学発祥の地」の碑が建立されています。説明版は「我が国の大学発祥地」と表記されていて、東京大学発祥地がイコール我が国大学の発祥地であることを示しています。学士会館については以前、建物の北側にある「日本野球発祥の地」の碑について紹介しています。
  この辺りは元々、護持院という寺院があったことに由来する「護持ケ原」と呼ばれる「火除地」があり、将軍の猟場として使用されてきました。
 その護持ケ原に文久2年(1862)、洋学調所(蕃書調所)が移転してきて、明治2年(1869)には大学南校となります。その後、名称が何度か変わり、明治10年「東京開成学校」の時に、当時、加賀前田屋敷跡にあった東京医学校と合併し、 東京大学が創立されました。 
  護持院ケ原は、東京大学のほか、東京外国語大学、学習院、一橋大学の発祥の地であり、その影響で神保町の書店街が形成されていったそうです。

学士会館
学士会館

 学士会は、明治19年(1886)に帝国大学(現在の東京大学)の同窓会組織として創立。帝国大学は現在、東京大学、京都大学、名古屋大学などに分かれたため、一つの大学の枠を超えた組織となっています。
 現在の学士会館は、昭和3年(1928)に関東大震災の復興建物として完成。現在は宿泊、レストラン、会議室、結婚式場などを完備する施設ですが、昭和11年(1936)に勃発した「2・26事件」では第14師団東京警備隊司令部が置かれ、太平洋戦争時は屋上に高射機関銃を設置。戦後はGHQに接収され高級将校の宿舎や将校倶楽部として活用されるなど様々な歴史を刻んでいます。

東京大学発祥の地碑
東京大学発祥の地碑

説明板
説明板

千代田区神田錦町3−28

【関連記事】 日本野球発祥の地

| 明治・大正時代 | 07:54 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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文房堂

 方円社があった、かつての「神田区表神保町2番地」の区画に現在「文房堂」という画材店があります。
 文房堂は明治20年(1887)に神田区小川町で創業。当初は創業者池田治朗吉の遠縁にあたる丸善の創業者・早矢仕有的が経営していた書店の一部を借りてのスタートだったそうです。
 池田は福沢諭吉の門下生で、その影響により西洋美術(画材)や文具を輸入販売。その後、国産のオリジナル商品を取り扱うようになっていきます。
 現在の神田すずらん通りに店舗を新築したのは明治39年(1906)のことで、大正11年(1922)に改築。当時まだ珍しかった鉄筋造りの建物であったため、翌年発生した関東大震災でも倒壊を免れています。
 平成元年(1990)に千代田区より「都市景観賞」を受賞。同年建物は建替えられますが区の要請で特殊工法を用い外壁のみを保存し背面の建物を建て替えています。

文房堂
文房堂

文房堂入口
文房堂入口

都市景観賞のプレート
都市景観賞のプレート

千代田区神田神保町1-21-1

| 明治・大正時代 | 07:38 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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お玉が池 玄武館跡と種痘所記念碑

 以前紹介した、お玉が池にあった北辰一刀流、千葉周作の道場「玄武館」跡に行ってみました。しかし、現在マンション建築中で碑を確認することは出来ませんでした。以前は小学校の跡地として校門のみ残されていて、横門から入ると碑が見学できたのですがマンション完成後に碑が元に戻されるのかは不明です。

玄武館跡
玄武館跡

 岩本町3丁目の交差点に「お玉が池種痘所記念」と刻まれた碑がありました。安政5年(1858)、お玉が池のほとりに伊藤玄朴や大槻俊斎ら江戸の蘭学者たち82名が資金を出し合い「種痘所」を開設しています。その拠出者の筆頭が先日紹介した箕作阮甫です。
 種痘所は、痘瘡の予防接種の普及を図るための集会所で、勘定奉行の川路聖謨の屋敷にあったそうです。しかし、半年後に焼失し、現在の神田和泉町に移転しています。、種痘所は名前を変えながら存続し、東京大学医学部へと発展しています。ということで碑は東大医学部が設置しています。岩本町3丁目交差点から、もう少し南側に行ったところに「お玉ヶ池種痘所跡」の碑がありますが、今回はそちらには行けませんでした。

種痘所跡
種痘所記念碑

碑文
碑文

玄武館跡:千代田区神田東松下町22
種痘所記念碑:千代田区岩本町2丁目5−8付近 岩本町3丁目交差点

【関連記事】
 お玉が池と千葉周作道場「玄武館」
 箕作阮甫の墓所 多磨霊園

| 江戸時代 | 10:33 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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お玉ヶ池跡

 久しぶりに、神田にあったお玉ヶ池跡を訪れました。家康がやってくる以前は上野の不忍池よりも大きな池だったそうですが、江戸時代に入ると徐々に埋めたてが始まり池は姿を消していき、地名だけが残っています。
 前回、「繁栄お玉稲荷大明神」を紹介しましたが、それ以外にも近辺には池があったことを示す碑や説明板があります。

繁栄お玉稲荷大明神
繁栄お玉稲荷大明神

お玉ヶ池跡碑(全宅連会館)
お玉ヶ池跡碑(全宅連会館)

お玉ヶ池跡碑(全宅連会館)
お玉ヶ池跡碑(全宅連会館)

お玉が池児童遊園
お玉が池児童遊園

お玉が池児童遊園
お玉が池児童遊園

お玉が池児童遊園の説明板
お玉が池児童遊園の説明板

繁栄お玉稲荷大明神 : 千代田区岩本町2-5-13
全宅連会館 : 千代田区岩本町2-6
お玉が池児童遊園 : 岩本町2-5-1

【関連記事】 お玉が池と千葉周作道場「玄武館」

| 江戸時代 | 07:58 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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津山藩歴代藩主の墓

 ペリー艦隊来航時に、米大統領国書の翻訳にあたり、「お玉ケ池種痘所」設立にも関わった蘭学者、箕作阮甫の出身である美作国津山藩(津山市)については、以前、谷中霊園にある11代将軍徳川家斉の十四男で、津山藩の第8代藩主となった松平斉民の墓を紹介したことがありますが、松平斉民の墓の脇にある新しい墓石が、歴代藩主のの墓である事が分かり、今回紹介させていただきます。
 墓石が新しかったため、前回気が付きませんでしたが、墓誌によると平成23年に墓域が整理され一つにまとめられたそうです。

松平家先祖代々の墓
松平家先祖代々の墓

 岡山県の山あいにある津山藩が立藩されたのは慶長8年(1603)のことで、最初の藩主は「本能寺の変」で亡くなった森蘭丸の兄である森忠政(森可成の六男)でした。
 元禄11年(1698)に森氏に代わって入ったのが、家康の次男である結城秀康を祖とする越前松平家宗家の松平宣富で、以後廃藩置県まで松平氏が津山藩を治めています。
 墓誌に刻また最初の名は三代・光長となっていますが、光長は初代藩主・松平宣富の養父で、結城秀康の孫にあたり、越後高田藩主でした。宣富は陸奥白河藩主松平直矩の三男で秀康のひ孫にあたり、光長の養子となっています。
 宣富の後を継いだ嫡男・松平浅五郎は僅か11歳で亡くなり嗣子が無かったため本来、御家断絶、改易となるはずでしたが、結城秀康の家系であることが考慮され、従兄弟の松平長煕(白河新田藩主・松平知清の三男)を末期養子として迎えることが特別にゆるされましたが、領地は10万石から5万石に半減、官位も冷遇されることとなります。津山藩が再び10万石に復活するのは、以前紹介した将軍家斉の14男松平斉民を第8代藩主として迎えた時です。
 墓誌には津山藩最後の藩主・松平慶倫の名もありました。慶倫は7代藩主松平斉孝の四男で、松平斉民の養子となっています。

墓誌に刻まれた歴代藩主の名
墓誌に刻まれた歴代藩主の名

東京都台東区谷中 寛永寺谷中墓地

【関連記事】 将軍後継候補だった津山藩主 松平斉民

| 江戸時代 | 07:56 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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