烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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要津寺

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 要津寺には墨田区登録史跡である牧野家の墓と登録有形文化財の雪中庵関係碑群がある。

 慶安年間(1648~51)に牧野成儀を開祖とし、本郷に創建されたが、その後焼失し成儀の子成貞によって元禄4年(1691)牧野家下屋敷の一部、現在の千歳二丁目に建てられた。当時は成貞寺としていたが父成儀の法名を取り要津寺とした。



 牧野成貞は徳川五代将軍綱吉の側用人として仕え、綱吉から信頼されていた。



 ここで碁のはなしになるが成貞はとても碁の好きな大名であった。四世本因坊道策の門人を自ら称していたというほどである。



 こんな逸話があります。



 成貞は当時の名人本因坊道策に二子で打っていました。それで互角の成績であったため、「自分は本当に名人と二子で打てるのだろうか」と疑問を持ちます。なにしろ成貞は当時は退いているとはいえ将軍の側用人を務めた人物である。わざといい勝負にしているのではないか。そこで隠退という状態にあった前名人の安井算知と二子で打ちます。算知は道策の先代、三世本因坊道悦に名人から引き下ろされたのです。手心を加えるはずがないというです。しかし算知は道策の面目を潰さなかった。うまく負けたのですね。勝負である以上恨みは持たないというのでしょう。これで成貞は自分の力に自信を持ったというです。



 道策との棋譜こそのこっていないが、道策門下、安井算知との棋譜は数局のこっています。



 牧野家はその後笠間藩主として明治まで続く。牧野家代々の墓は現在でも周囲より一段高いところに石垣をめぐらして建っている。しかしこの墓所には一般の方は入れない。



 明治から昭和初期に政治家として活躍した牧野伸顕は大久保利通の二男として生まれ、この牧野家の養子になった。この牧野伸顕は日本棋院初代総裁を務めている。



  要津寺には芭蕉三哲のひとり雪中庵の碑も建っている。



 さらに芭蕉の



  古池や蛙飛び込む水の音



                      の有名な句が刻まれた碑も建っている。



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