烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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石切神社(本因坊秀策生家跡)

Sany0051  Sany0058



 石切神社は本因坊秀策の生家である桑原家の跡に建っている。



秀策生誕の地の札が建つここは本因坊秀策記念館の隣である。



 ここには本因坊秀策の顕彰碑がある。この碑は秀策の甥(兄の子)である桑原寅四郎が中心となって設立し、当時の因島七町村が一丸となって建てたものである。碑の完成は当初、秀策の五十忌祭を記念して計画されたが、十五年遅れて大正十五年の完成となった。



 秀策は文政十二年(一八二九)五月五日、備後国御調郡三浦村大字外之浦、現在の広島県尾道市因島外浦町に生まれた。父の桑原輪三は雑貨商。妻カメとの間に二男一女があり、秀策は次男である。輪三は対岸三原から入婿し、実家の安田家は代々庄屋を勤めて士分に近かった。



 秀策の幼名は虎次郎。母カメは碁を知っており、胎内にあるときしばしば碁を並べていたと伝えられる。また、虎次郎が三、四歳のころ、どんなに泣いても碁石を与えるとすぐ泣き止んだというし、父が叱って押入れに入れたものの泣声が聞こえなくなったので様子を見ると、しまっていた碁盤に碁石を並べて遊んでいたという。母が碁を教えたのは五歳のときだった。



 天保五年(一八三四)九月、虎次郎六歳。商用を兼ねた父に連れられて尾道に相撲見物に向かったが、父が取引先の番頭と話をしている間に、石音に引かれて奥座敷に入り込んだ。碁盤の横に座って動かず、父は一人で相撲を見に行ったという。このときの対局者の一人が、のちに秀策の終世変わらぬ後援者となった橋本吉兵衛(加登灰屋、号竹下)だった。竹下は少年に九子置かせて一局試みたが、とても覚えたてとは思えない。翌年、もう一度対局したときは、初段の竹下も四子で持て余したといわれる。



 虎次郎のうわさを聞いた三原城主浅野甲斐守忠敬は城中に呼んで対局した。忠敬は相当な囲碁好きで当時備後、安芸で有数の打ち手であった竹原の宝泉寺住職葆真を招いてしばしば手合わせしたほどだった。虎次郎との対局は手合も勝負も不明だが、忠敬の長考に退屈した少年が席を外して縁側に出たという話が伝わっている。以後、忠敬は虎次郎を茶坊主として勤務させ、葆真に指導を依頼したらしい。安田栄斎と改名したのはこの時期だ。下城のたびに因島まで帰るのは容易でなく、父の実家に寄留していたものと思われる。栄斎が八歳のときには葆真と互角に戦うまで成長していた。



 天保八年に、坊門五段伊藤松次郎が尾道を訪れた。栄斎と打つことになったとき、九歳の少年を見て松次郎は不快の色をかくさず、初段近く打つと聞いて「初段では座敷ホイトだ」と放言した。ホイトとはこの地方の放言で乞食のこと。少しくらい強いのを鼻にかけ、あちこちの座敷をまわる乞食同然というのである。



 しかし、実際に打ってみて松次郎は驚く。昇段の力を認めざるをえなかった。十数年後、秀策が本因坊跡目に定まり、松次郎も上府して松和と名乗っていた時期、往時の非礼を正式にわびたという。対して秀策は「あのときの言葉を聞いてわたしは自分を督励することができました。むしろお礼を申し上げるのはわたしの方です」と答えたという。



 葆真の力を超える日がきた。天保八年の暮、三原侯の声がかりで栄斎は江戸で修行することになり、家臣に連れられて本因坊家に向かう。家元四家のうち坊門を選んだのは松次郎の推挙があったのかもしれない。



 江戸に着いた栄斎は上野車坂下の本因坊道場に入り十二世本因坊丈和の内弟子となる。こうして栄斎は碁士生活のスタートを切った。正式に初段を許されるのはその二年後のことである。



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