烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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秀策生家

Sany0136  Sany0066


 本因坊秀策囲碁記念館の裏手に再現された秀策の生家。



 中に入ることもできます。部屋も再現されており、楽しむことができます。



 江戸に着いた栄斎に二つの喜びが待っていた。一つは改名、一つは昇段である。


 天保十二年九月十一日、当主丈策は改名状をもって栄斎を秀策に改めさせた。浅野家からの預り弟子であるためその形式をとったものと推測される。丈策から策、跡目秀和から秀を与えられたかたちだ。


 その五日後の十六日には二段格の証状が与えられた。免状でなく証状なのは碁所不在のときは免状発行にかんして家元四家の同職会議が必要だからである。


 そして、翌十三年の五月から太田雄蔵との連戦がはじまった。雄蔵は安井門だが秀策と数多く打っている。


 雄蔵は江戸の生まれで、はじめ川原卯之助と名乗った。のち七段に進み、御城碁に推挙されるが断った。秀策の打碁中、対雄蔵戦が最も多く後年三十番碁を打った。


 秀策はどちらかといえば雄蔵が苦手だったらしい。天保十三年五月から十月まで二十四連戦のうち、二子番十勝四敗一持碁一打ちかけ、先番三勝五敗。先二で四連勝、先に打ち込んだのも束の間、四連敗でふたたび先二に打ち込み返されている。定先の手合になるのは十四年の九月になる。


 名人碁所の願書を取り下げた十一世井上因碩(幻庵)が、この年の五月機会を作って秀和と再戦するが、秀和の勝ちになった。この年の御城碁で再戦するが、これも秀和が勝った。こうした碁界の緊張の中で秀策は着々と実力をつけていった。


 少年秀策に胸を貸したのは雄蔵ばかりではない。雄蔵との連戦のあと葛野忠左衛門(丈和の長子、のち十二世井上因碩)が集中して対局し、その他にも服部正徹(井上門)や竹川弥三郎や岸本左一郎、真井徳次郎らの兄弟子がこぞって胸を貸した。


 天保十四年十月六日、秀策は四段に進められた。今度は正式の免状で「今般同僚会議を遂げ」の字句が入っている。


 安井家の当主九世算知とは昇段の直前に先で初対局している。算知は八世安井仙知(知得)の実子。さきの太田雄蔵、坂口仙得、伊藤松和(松次郎)と並んで天保四傑と称された高手である。その算知も先で圧倒し、安芸小僧の評価はさらに高まったにちがいない。


 天保十五年、秀策は十六歳を迎えた。元日、秀和が打ち初めに秀策の先で一局試みる。その碁は打ち掛けとなったが、二月に再度先で試みた。秀和はこのころはまだ跡目だが、そのあとを継ぐ者の第一候補として秀策の名が胸中にあったのではないか。


 先の二局目、秀策は俗にいう「秀策流」で立ち向かった。秀策流布石は、これまで葛野忠左衛門、太田雄蔵、鶴岡三郎助、岸本左一郎らに打っている。自信をもって兄弟子の胸を借りたにちがいない。


 天保十二年に帰京して以来、秀策は一年に一段の割で昇段した。勝率は手許の譜で七割ちかい。



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