烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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地蔵院(秀策墓所)

Sany0073  Sany0078



 記念館、石切神社より徒歩十分ぐらいのところにある地蔵院。そこには本因坊秀策の墓地がある。

 境内に入り、墓地の方に向かい、坂を上がったところに札が建ててある。

 桑原家の墓地の正面に秀策の墓はある。

 再上京から四年、初段から四段に進んだ秀策は、天保十五年の夏過ぎに帰郷の途につく。この度の同行者は江戸生まれの兄弟子真井徳次郎である。徳次郎は二十一歳、御家人の出で丈和門人。二十三歳で没している。

 東海道を下って遠州(静岡県)三沢村。ここは兄弟子伊藤徳兵衛の出身地で、秀策は徳兵衛と集中対局する。徳兵衛は十一世本因坊元丈の内弟子となった時期もあり、天保十年に五段を許されている。ただし秀策とは互先。この年の四月に出京したとき秀策は先々先で四連勝、互先になってさらに連勝しているからだ

 地元の対局とあって徳兵衛は必死であったろう。三沢村では四局打たれているが、互いに先番を勝って打ち分け

 徳兵衛は生涯に四度名を変えたが、この当時はみなしばしば改名している。葛野忠左衛門は七度の改名だ。隠居すれば雅号を用いる。秀策の場合も五度の改名。桑原虎次郎からはじまり、安田栄斎、安田秀策、桑原秀策。むろん本因坊秀策が一番長く、このころの本因坊はまぎれもない姓であって、本因坊姓を名乗るには養子縁組が必要なのである。

 秀策が前回帰郷したときは初段であったが、今回は当時としては稀少な四段に昇り、そのためか行く先々で対局を要請されたようだ。徳兵衛との対局を皮切りに、伊藤松次郎、味田村喜仙、加藤隆和、真井徳次郎、宝泉寺、岸本左一郎、勝田栄助、中川順節、井上因碩(幻庵)などとも打っている。一種の武者修行である。

 徳兵衛は秀策の再上府のおり、もう一度袖を捕えて対局を挑んだ。結果は秀策の三連勝となり、闘志を失わせた。これ以後徳兵衛との対局はない。

 遠江国を過ぎ尾張国にさしかかる。ここは碁の盛んな土地だ。待っていたのは伊藤松次郎である。松次郎は後の松和。名古屋に生まれる。加藤隆和とともに伊藤子元(十世本因坊烈元門下、五段)の門に入り、文化九年(一八一二)に上京して本因坊元丈の弟子となる。五段に進み、いったん帰国したが、天保九年、本因坊丈和から六段を許された。松和と名乗り御城碁に出場するのはもう少しあとのことである。

 松次郎は秀策がはじめて対戦した玄人碁打である。天保十一年に再度の出府をはたしているが、郷里の人々の要請に応えて秀策との対局のために戻っていたのかもしれない。

 名古屋にはもう一人の高段者加藤隆和がいる。滞在中に秀策は隆和とも打っている。

 隆和は寛政十二年(一八〇〇)の生まれで尾張藩士の子である。松次郎とともに伊藤子元の門に入り、のち出府して本因坊門に転じたが丈和門人とされているところをみると、松次郎より出府が遅れたらしい。五段に進んで名古屋に戻って多くの門人を育てた。

 当時、大阪の中川順節、京都の川北耕之助など、各地にレッスンプロというべき碁打がいた。隆和もその一人だ。この後も秀策は東海道を往復するのだが、隆和は弟子たちに指導を受けさせている。

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