烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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てっぱん

Sany0173

 朝の連続テレビ小説の「てっぱん」で舞台になった地。

 尾道で主人公が飛び込んだ場所。


 秀策のはなしです。

 大阪対局を終えて秀策は一路江戸へ。十月はじめには到着したが、そこで待っていたのは五段昇進の知らせと跡目問題だった。
 この時点で跡目問題が出てきた理由を推定すると、まず、因碩に先を許されて三連勝し本因坊家のために気を吐いたこと。次に大師匠の丈和と当主の丈策が一年後に相次いで没したところをみるとすでに健康を害していたかもしれない。二十七歳の秀和に万一のことがあろうとは思えないが、本因坊家も秀和個人もこれまであまり考えなかった後継者選びに秀策が急浮上したのだろう。

 跡目の話があったとき、秀策はかなりきびしい態度で拒んだと伝えられる。浅野忠敬から扶持をもらう身分(三原浅野家お抱えの碁打ちとして江戸へ囲碁留学に来ているような身)であり、郷里の人々や両親が一日も早く大成して帰国する日を待っている事情を述べたのであろう。そこで本因坊家は寺社奉行脇坂淡路守に仲介を頼み、浅野本家で広島藩主の浅野斎鼎を介して三原浅野家に話を通じる。これだけの手続きがあって忠敬は郷土の人材が公儀の棋員に挙げられるのをこころよく承諾したのだった。

 弘化三年十月から翌四年九月までの一年間、秀策は秀和と集中的に打っている。秀策を後継者と定めた秀和が胸を貸したのであろうか。またこの時期、当主の丈策も隠居の丈和も一局ずつ秀策と対している。ともに打ち掛けになっており、跡目問題と絡んだ儀礼的な対戦だったかもしれない。

 秀策といえば謹厳剛直な打ち振りを想像するが、『坐隠談叢』に次の記述がある。当時本因坊道場で碁盤四面を合わせ一面として碁を打つことが流行していた。この大碁盤では平素の定石は用をなさず、いきおい創造力に頼るよりない。その大碁盤でも秀策は当時の諸名手から一段抜けていた。また連珠でも敵なしだったという。

 秀策は後に広島で儒学の頼山陽、茶道の野村余烋とともに当代の三偉人と讃えられることになる。

 秀策が帰府から跡目に定まるまで集中的に打ったのは四人。秀和、雄蔵、井上秀徹(葛野忠左衛門、鶴岡三郎助である。

 三郎助は本因坊丈策の門人で秀策より八歳年長。同段の秀策と数多く打っている。秀策も白番ではけっこう負けており、手強い兄弟子だったようだ。

 弘化五年は二月二十八日に嘉永と改元された。元年九月十六日、十四世本因坊となった秀和は正式に秀策の跡目願を出す。そのとき同時に提出した親類書には父桑原輪三とあり、桑原秀策の名が初めて出てくるのである。父輪三としてはいったん安田家の養子に出した形をとった息子だが予期以上の出世で本因坊家に入ることになり、それならばもう一度桑原家に戻し桑原の名をのこしたいと考えたらしい。

 秀策の跡目願は嘉永元年十一月二十二日に聞き届けられた。十二月十四日には寺社奉行脇坂淡路守に御目見得する。翌十五日に秀和に付き添われ、十二代将軍徳川家慶に御目見えした。跡目弟子として扶持を受けたのは嘉永五年正月からだった。

 秀策が跡目を許されたのは数え二十一歳の暮。そして丈和の娘花と結婚した。翌年六段に進んだ。

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| 本因坊家 | 08:50 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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