烏鷺光一の「囲碁と歴史」

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

千光寺

Sany0204  Sany0203



 右の玉の岩はロープウェイに乗っているときに正面から見ることができます。これは頂上から降りてくる途中にある千光寺本堂の近くから上に向かって撮ったもの。
 寺伝によれば弘法大師空海により建立されたとある。そして源満仲によって再建された。
 文学のこみちを通りながら、尾道の有名な坂を下りて行きました。

 秀策のはなしです。

 嘉永六年、秀策は生涯の好敵手太田雄蔵と三十番碁を打つことになる。雄蔵は安井門だが秀策が江戸に来てからずっと鍛えてくれた人物のひとりである。秀策ののこされている棋譜は雄蔵とのものがもっとも多い。

 三十番碁のいきさつは、旗本の赤井五郎作の屋敷に碁打ちが集まり、いま秀策と対等に打てるものはいないだろうというはなしになり、雄蔵がそれに同調できないと発言したことらしい。雄蔵は御城碁には出仕していない。御城碁に出仕するためには剃髪しなければならなかったため、それを嫌い御城碁には出仕しなかったという。

 そのため、自分が鍛えた秀策と真剣勝負できる機会が少なく、自分と秀策は互先なので秀策にかなうものがいないとはいえないというのである。

 赤井五郎作はしばしば対局の催主となっていたので五郎作が発起人となった。

 第一局は五郎作の屋敷のある赤坂御門の近く、麹町にある平川天神(平川天満宮)でおこなわれた。

 この当時、秀策は二十五歳、雄蔵は四十七歳であった。

 十七局まで互先をたもった雄蔵だったが、ついに先相先に打ち込まれた。この三十番碁で雄蔵が白番で勝った碁はない。最終局となった二十三局で雄蔵白番持碁になったぐらいだ。

 三十番碁は二十三局で中断となった。

 三年後、雄蔵は病死する。

 秀策は雄蔵の死を悼み慟哭したと伝えられる。その様子を『坐隠談叢』(明治に編纂された囲碁史をまとめたもの)によれば、「秀策その訃音に接するや、悲嘆好敵手を失いしを痛惜すること当年の不識庵(上杉謙信)の機山(武田信玄)を悲しみしが如し」と記している。

スポンサーサイト

| 本因坊家 | 09:13 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT















非公開コメント

TRACKBACK URL

http://igoshi.blog.fc2.com/tb.php/857-1d4199c6

TRACKBACK

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。