烏鷺光一の「囲碁と歴史」

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

本妙寺跡(本郷丸山)

Honmyouji 
1850年代の本妙寺

 歴代本因坊が眠る本妙寺が現在の巣鴨へ移転したのは明治43年の事である。元々1572年(元亀2年)に現在の静岡県浜松市で創建されたが徳川家康が江戸に入国した際、共に江戸へ移った。山号の栄徳山とは徳川幕府の繁栄を意味しているといわれ当初は江戸城内にあったが、その後転々とし1636年(寛永13年)に本郷丸山に移転後、明治時代までこの地にあった。

 本妙寺といえば1657年(明暦)3年に発生した「明暦の大火」の火元として有名である。いわゆる「振袖火事」と言われるもので江戸の6割が焼失したという空襲や震災を除くと日本史上最大の火災である。しかし、実際には火元は隣接していた老中阿部忠秋の屋敷という説もある。老中の屋敷が火元となると幕府の威信が失墜するため幕府が本妙寺にたのみ火元という事にしたというのだ。事実、火元には厳罰をもって対処してきたこの時代に三年後には寺が再建され十年後には同寺の所属する日蓮門下勝劣派の触頭(幕府からの伝達を各寺院に伝えたり、各寺院からの要望を幕府に申し出る役)に任じられる等、厚遇されている。また、阿部家からは大正時代まで毎年大火の供養料が奉納されていたという。

 本因坊家の当主が四世道策以降葬られる様になったのは、道策が遺言で自身を本妙寺へ葬るように書き残していたためと言われているが、その理由は定かではない。

 現在、本妙寺跡は住宅地となっているが現在の地図をみると東に隣接していた長泉寺の横の道が南北に長い長方形が二つ並んだ形になって、ここが本妙寺境内であった事がわかる。

 また、本妙寺があった証として近くの坂に「本妙寺坂」という名前が残されている。



Dsc_0304_2
塀の左側が東に隣接していた長泉寺。右が本妙寺境内の跡で道路が南北に長い長方形となっていて区域を確認する事ができる。

Dsc_0297 Dsc_0298
「本妙寺跡の案内板」

同場所は女子美術学校菊坂校舎跡や日本で最初に公立小学校が設置された場所でもある。

Dsc_0295

「本妙寺坂」
春日通りから区立本郷小学校のある路地に入り小学校を通り過ぎたあたりの坂。

坂を降りたあたりの交差点は菊坂と交差している。さらにまっすぐ進むと本妙寺跡がある。


本妙寺跡の住所
 文京区本郷5丁目16あたり

スポンサーサイト

| 本因坊家 | 20:13 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT















非公開コメント

TRACKBACK URL

http://igoshi.blog.fc2.com/tb.php/797-0b936b4d

TRACKBACK

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。