烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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秀策・雄蔵三十番碁の発起人・赤井五郎作の屋敷跡

 本因坊秀策と太田雄蔵による、後の世に語り継がれる数々の名局が生まれた三十番碁は次のようないきさつで行われた。

 碁好きの旗本・赤井五郎作は度々、碁会を主催していたが嘉永6年の新春に五郎作の屋敷で碁会が催された。集まったのは、仙得・松和・雄蔵・算知の四傑と服部一で碁会の後に秀策の話になり、現在最も強い碁打ちは秀策であろうと結論が出かかった際、雄蔵のみが異を唱えた。同門ではないが秀策と数多く打ち鍛えてきた雄蔵にしてみれば、まだまだ秀策には負けないという思いがあったのであろう。そこで、五郎作が発起人となって三十番碁が行われることとなったのだ。

 赤井五郎作とはどういう人物だったのだろうか。旗本の赤井氏は元々、丹波地方の戦国武将であった。信長の時代には一族の赤井直正が勇猛さから「丹波の赤鬼」と恐れられ明智光秀の丹波侵攻により織田方と戦っている。直正の末裔にタレントの赤井英和がいる。直正の甥(兄の子)である忠家はその後、豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の戦いでは石田三成の密書を家康に献上し東軍に付き徳川の旗本となる。息子の忠泰は家康の小姓を務める等しているが通称を五郎作と名乗っている。

 江戸時代に赤井五郎作という名前がしばしば出てくる。明暦3年に書院番赤井五郎作忠秋が江戸麹町堤防工事の奉行に任命。享保17年(1732)将軍の命により目付赤井五郎作が会津藩に行き藩政を査察。その他、享保10年にも盗賊改として確認できる。赤井氏の当主が代々五郎作の名を継いだのか何代かおきに命名したのかわからないが由緒ある名前として受け継がれてきたのであろう。

 三十番碁の催された時代の五郎作は無役であったが、名門でありかなり裕福であったらしい。場所は御厩谷にあった。江戸時代の地図を見ると三差路にあるが、現在も道の形状は変わっていないのでわかりやすく、跡地は千代田区三番町にある精糖会館が建っている。

 場所 千代田区三番町5-7 精糖会館

Akai_2 

御江戸番町絵図(嘉永2-文久2(1849-1862)刊、尾張屋清七)に

記された赤井五郎作の屋敷


Dsc_0402  Dsc_0400

「赤井五郎作」屋敷跡である精糖会館

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