烏鷺光一の「囲碁と歴史」

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

平将門の首塚

Dsc_0515  Dsc_0511
平将門の首塚の入口(左)と首塚の石碑(右)



                          

Dsc_0509  Dsc_0514
石碑の後ろには将門の墓とされた石灯篭(左)  江戸時代酒井家の上屋敷であった事を示す案内板(右)



                     

 東京駅に近く、オフィスビルが立ち並ぶ大手町の一画に「平将門の首塚」があります。



 平安時代中期に桓武天皇の流れを汲む平氏一族の一部は関東地方で勢力を拡大しますが一族同士の争いが絶えませんでした。その抗争に打ち勝ち関東を平定したのが平将門でした。その後、国の役人と地方豪族との対立の調停にも積極的に関与しますが、争いは朝廷をも巻き込み拡大し、ついに将門は新しい天皇を意味する「新皇」を名乗り関東全域を支配します。これが「平将門の乱」(天慶の乱)と呼ばれるものです。衝撃を受けた朝廷は討伐軍を組織し将門を打果たし、その首を京都の都大路に晒しましたが、伝説によると首は3日目の夜に突然舞い上がり故郷へ飛び去り落ちたところが大手町の首塚と伝えられています。



 徳治2年(1307)、疫病がはやり将門の崇りとされたため時宗の真教上人(空也上人の二番弟子)は、将門に「蓮阿弥陀仏」という法号を追贈し、塚の前に石塔婆を建てて日輪寺に供養します。さらに傍らにあった神社にその霊を合わせ祀ります。それが「神田明神」です。神田という名前の由来は諸説ありますが、一説には将門の首を探して、その体がここまでやってきて倒れた場所であり「からだ」が訛って「神田」と呼ばれるようになったという説があります。日輪寺も神田明神も別の場所へ移っていますが供養された将門の霊は関東の守護神として信仰されました。




 かつての塚は盛り土があり石室もあった事から実際は古墳と考えられますが、大蔵省の敷地内となっていた大正時代に関東大震災により全焼した大蔵省の仮庁舎を整地して建ててしまいます。しかし、その後大蔵大臣や職員、庁舎の建設関係者が相次いで急死し将門の崇りとの噂が広まり、ついに仮庁舎が撤去され昭和2年に鎮魂碑が建てられました。



 戦後、空襲で焼け野原となったここにGHQが駐車場を造ろうとして再び首塚を壊そうとしますがブルドーザーの運転手が事故で亡くなり作業員が祟りを恐れ作業を拒否。建設は中止されました。



 このように、「将門の首塚」は東京のミステリースポットとして有名ですが江戸時代にもここで事件がありました。江戸時代は、ここは酒井家の上屋敷でした。



 仙台藩第三代藩主伊達綱宗は遊興放蕩三昧のため親族大名連名により幕府に隠居願いが出され21歳にして強制的に隠居させられます。後を継いだ息子の綱村は幼少(2歳)のため綱宗を隠居に追込んだ綱宗の叔父である一関藩主伊達宗勝が後見役となり、その一派の家老原田宗輔(甲斐)たちがが藩政の実権を握ぎります。原田達に冷遇されていた伊達一門である伊達安芸宗重は伊達藩改易の恐れがあるにも関わらず幕府へ宗勝派の横暴を訴えでます。そして幕府の審問が行われることになり老中酒井忠清邸へ宗重や原田が集まりました。この中で自分の立場の不利を知った原田は宗重に斬りかかり宗重が死亡。原田も周りの人々に斬り殺されました。世に言う「伊達騒動」です。



 この事件により原田家は断絶。一関藩も改易となりましたが、当事者が死んでしまったため当初の審問は中止され伊達藩にはお咎めなしとなっています。「伊達騒動」は歌舞伎「伽羅先代萩」の題材となり原田は悪人として描かれてきましたが、山本周五郎の小説「樅ノ木は残った」では汚名を一身に受け宗重を斬り殺したことで仙台藩を救った人物として描かれています。いずれにしても、この斬殺事件も将門の霊によるものだったのでしょうか。

スポンサーサイト

| 平安時代 | 23:33 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT















非公開コメント

TRACKBACK URL

http://igoshi.blog.fc2.com/tb.php/726-2d1c5e90

TRACKBACK

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。