烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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皇居外苑~保科正之の屋敷跡

 江戸時代初期の政治家である保科正之は二代将軍徳川秀忠の四男でしたが母は正式な側室ではなく、お江の方に知られるのを恐れ事実が伏せられたまま高遠藩3万石藩主の保科正光へ養子に出されました。秀忠が亡くなるまで正式な対面はなかったそうです。異母兄である三代将軍家光は秀忠の死後そのことを知り、正之の誠実で聡明な性格を気に入り、山形20万石、後に会津23万石へ加増転封され将軍の側近として重用します。会津藩は実質御三家に並ぶほどの大藩となりました。

 家光は死の間際、正之を呼び、まだ11歳であった息子家綱の後見役をたのんでいます。こうして正之は幕閣のNO2として幕府を支えていくことになるのです。この間、明暦の大火の復興に力を注ぎ江戸城天守閣の再建を反対し町屋の復旧を優先させたり、江戸の急激な人口増加に伴う水不足に対応するため財政難を理由に反対の多かった「玉川上水」の開削を推進する等しています。

 幕府のNO2まで登りつめた正之でしたが一方、幕府から松平家を名乗ることを勧められますが保科家への恩義を忘れることなく固辞しています。会津藩は3代正容になり、ようやく松平家を名乗り親藩へ列しています。


 正之は大変囲碁好きでも知られ、安井家二世の安井算知に幕府とは別に禄を与え囲碁を教わっていたといいます。後に算知が名人碁所になれたのも正之の後ろ立てがあったからかもしれません。また、碁好きが災いした逸話として御城碁で、本因坊算悦と安井算知の対局を観戦中、形勢をみて何気なく「本因坊の形勢が良くないようだ」と発言してしまいます。それを聞いた算悦は「自分が命を賭けて碁に向かうのは武士が戦場に臨むのと同じだ」と言い対局を終了して帰ろうとします。結局、正之が謝罪して対局は続けられましたが、算悦の行動は棋士の心構えとして称賛され語り継がれています。




 その正之が住み、算知等囲碁関係者が通っていた上屋敷は現在の皇居外苑にありました。皇居外苑は江戸時代は西の丸下と呼ばれ大名屋敷が建ち並ぶ場所でした。そのほとんどが幕府から老中等、幕府の重要な役職についた大名に貸し与える屋敷であり、役職を退いた後は退去するため時代により住んでいた大名がめまぐるしく変わっています。



 当時の保科家上屋敷は桜田門にほど近い場所にありました。




1657
明暦3年の地図による保科家上屋敷の場所



 この年に明暦の大火が発生している。



          
   
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現在の保科家上屋敷跡付近。前方に見えるのが桜田門。

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