烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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高橋至時・景保親子の墓 源空寺

東上野の源空寺にある伊能忠敬の墓の隣りに忠敬の師匠の高橋至時(たかはしよしとき)の墓があります。と言うより忠敬が遺言により師匠と同じ所に葬ってほしいとたのんだので至時の隣りに忠敬の墓があるというのが正確でしょうか。
 高橋至時は大阪で生まれ天文学者・麻田剛立に師事します。寛政7年(1795)に、幕府から、改暦を行うために出府を命じられ江戸へ赴任し、幕府天文方となります。至時は西洋の最新技術を取り入れながら寛政暦を完成させます。
 至時が江戸にやってきて数ヶ月後に弟子入りしてきたのが伊能忠敬でした。年上の弟子に対して暦学や天文学を教えた至時は忠敬の測量事業に対して幕府への許可や、様々な助言を行い支援します。至時は文化元年(1804)に亡くなり地図の完成を見ることはありませでした。



                
Imag1531
高橋至時の墓




 高橋至時の息子・景保は、父の跡を継ぎ幕府天文方に就任します。伊能忠敬の全国測量事業については監督し、全面的に支援しています。忠敬が志半ばで亡くなると、景保は忠敬の実測をもとに「大日本沿海輿地全図」を完成させます。 
 文化11年(1814)には書物奉行兼天文方筆頭に就任しますが突然、彼を悲劇が襲います。いわゆる「シーボルト事件」と呼ばれた出来事です。
 文政11年(1828)にオランダ商館付の医師シーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った高橋景保ほか十数名が投獄され、景保は翌年獄死します。当時、樺太に関する資料を集めていた景保にシーボルトが書物を贈ったことに対するお礼として伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」の縮図を贈ったものでした。獄死した景保の遺体は塩漬けにして保管され、後日、罪が確定後斬首されたそうです。
 現在、景保は父の高橋至時と伊能忠敬と並んで葬られています。また、その傍らに 景保の顕彰碑が建立されていますが、その裏面にはシーボルトの書物の一遍が刻まれていました。




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高橋景保の墓




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高橋景保の顕彰碑




源空寺:台東区東上野6-19-2





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