烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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大石内蔵助自刃の地(細川家と囲碁)

 元禄16年1月24日(1703年3月10日)、吉良邸に討ち入り吉良上野介を討った赤穂浪士は、処分が決まるまで4ヶ所の大名家に分けて預けられます。浪士たちを率いた大石内蔵助は16名の浪士とともに現在の港区高輪一丁目にあった熊本藩細川家の下屋敷に預けられました。浪士達を預かった細川家とは丁重に扱い世間から賞賛を浴びています。浪士達をどうするか幕府での話し合いは紛糾しますが、最終的に全員切腹と決まり、元禄16年2月4日(3月20日)に預けられていた各屋敷にて切腹しています。



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「大石良雄等自刃ノ跡」の碑(このにあるという道標)(左)と自刃した細川邸跡の門(右)




 ところで、大石内蔵助が切腹した当時の熊本藩細川家の藩主は、囲碁界とも深い関わりがあった第3代・細川綱利でした。
 綱利は2代藩主細川光尚の長男として寛永20年(1643)に生まれます。この時、乳母を勤めたのが本因坊道策の母・ハマです。ハマは幼い道策に囲碁を教えた人物としても知られています。
 綱利が6歳のとき父・光尚が亡くなりますが綱利が幼少であったため改易となる恐れがありました。この時、光尚が生前、息子が幼いため、どのような処分でも受け入れると申し出ていたため好印象を与えていたことや、家臣が奔走した事により、藩をそのまま継ぐことが許されたとの事です。
 しかし、綱利が成長した後、再びこの時の継承手続きが問題にされ危機が訪れます。そこで藩では幕閣へ根回しするために多大な費用が必要となりました。その費用を捻出したのが、相談を受けた道策です。当時、名人碁所として囲碁界の頂点に立っていた道策は、実弟で井上家を継承していた井上道砂因碩に、屋敷を担保にして資金を捻出させます。本因坊自ら用立てるのではなく、井上家にやらせたのは、本因坊家以外の家元を盛り立てた方が囲碁界全体のためになると考えたからでしょうか。
 いずれにしても、井上家が用立てた資金により細川家は窮地を脱しますが、この時、実際に幕閣で政界工作を行ったのは徳川綱吉の御用人で本因坊門下でもあった牧野成貞でした。
 これが縁で細川家と井上家は結びつきを強め、井上家当主は幕府以外に熊本藩からも俸禄をいただくようになります。
 幕末の頃に井上節山因碩(本因坊丈和の子)が、門人を妻と浮気していると思い込み斬殺するという事件が発生しますが、節山の隠退のみで穏便に済まされたのは、殺された門人の父が細川家家臣であったためと言われています。約150年前の道策の判断が井上家を救った事になります。




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門の壁に埋め込まれた碑




 赤穂浪士討ち入りといえば、事件のあった吉良邸は本因坊家の目の前にありました。当時は本因坊道策が亡くなって数か月たった頃で13歳の本因坊道知が跡を継いだばかり。後見人として、井上道節因碩が本因坊家に住み込んでいた頃です。本因坊家の人々も騒ぎを見ていたのでしょうか。




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門の隙間から覗いた中の様子




「大石良雄等自刃ノ跡」の碑(道標):港区高輪1丁目15−3 高輪一丁目アパート3号棟角



細川邸跡の門:港区高輪1丁目15−2 高輪一丁目アパート2号棟横



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