烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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南部坂~忠臣蔵の舞台

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坂上から眺める「南部坂」(左)と坂下にある道標(右)



 



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氷川神社境内にある浅野土佐守(三好藩)屋敷跡の案内板

   



 赤坂氷川神社から六本木通りに向かっていく途中に「南部坂」という坂があります。赤坂二丁目と六本木二丁目の境界になっています。



 



 ここは忠臣蔵の名場面「南部坂雪の別れ」の舞台です。



 大石内蔵助は討ち入り前夜、南部坂近くに住んでいる亡き主君の未亡人瑤泉院へ報告のために訪れます。しかし、吉良方の間者がいる事を察知した内蔵助は「仕官が決まったので仇討は諦めます。」と告げます。仇討を期待していた瑤泉院は内蔵助を激しく非難し立ち去ってしまいます。内蔵助は主君の仏壇へ一つの巻物を供えて帰りました。間者はその巻物を手にいれようとして捕えられますが、瑤泉院が巻物を見ると、それは討ち入りする四十七士の連判状だったのです。内蔵助の真意を知った瑤泉院は激しく非難した事を悔い涙を流しました。



 というお話ですが、物語により南部坂で瑤泉院が内蔵助を見送った等、色々な演出が加えられていますが実際は内蔵助が討ち入り前日に訪ねたという事実はありません。



 瑤泉院は赤穂藩浅野家の親戚である三好藩浅野家出身で、その下屋敷が現在の氷川神社境内にありました。浅野内匠頭の切腹後、瑤泉院はこの下屋敷に住んでいたと神社境内の案内板に書いてあります。



 また、南部坂の名称は江戸初期に南部藩の中屋敷があったために名付けられたのですが、屋敷は後に麻布にあった笠間藩浅野家との間で取り替えが行われます。この笠間藩浅野家が赤穂藩へ移封された訳で、瑤泉院は赤穂藩の南部坂の屋敷にいたという描かれ方をしている物語もありますが、実際は屋敷はすぐに接収されて討ち入り当時はありませんでした。



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| 江戸時代 | 14:42 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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