烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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彰義隊の墓(上野公園)

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 上野公園の西郷隆盛像の近くに彰義隊の墓があります。



 最後の征夷大将軍であった徳川慶喜が大政奉還し上野寛永寺で謹慎すると、慶喜の助命嘆願と身辺警護を目的として幕臣や出身の一ツ橋家を中心として彰義隊が結成されます。



 西郷隆盛と勝海舟の会談により江戸城が無血開城されると慶喜は水戸へ移りますが、彰義隊は寛永寺の徳川家墓所を守ることを名目に寛永寺を拠点に江戸に残ります。



 西郷から江戸の治安維持を任された勝は懐柔のため江戸の警備にあたらせていましたが、彰義隊自ら新政府の兵士を惨殺する等したため、新政府は京都から大村益次郎を派遣します。大村は彰義隊の解散を勧告しますが従わないため寛永寺周辺を包囲し総攻撃を開始しました。慶応4年(1868)の事で上野戦争と呼ばれています。彰義隊は僅か一日で壊滅し多くの死者をだしました。そして、その遺体は賊軍であるとしてそのまま放置されていましたが、見かねた三ノ輪の円通寺(現在は南千住)の住職が供養の許可を得て同寺へ埋葬しました。寛永寺ではその返礼として激戦地であり寺の総門であった黒門を円通寺に贈っていて現存しています。



 なお、上野にある墓は彰義隊が陣を張っていたあたりで遺体を火葬した場所に建てられた墓碑で政府を気にして「戦死之墓」とだけ刻まれています。



 本因坊家最後の当主・本因坊秀哉(田村保寿)の父は旗本の家に生まれ彰義隊に参加していたそうです。




  ※以前、紹介した円通寺のブログ。



    http://uro.blog.ocn.ne.jp/blog/2011/05/post_9c16.html

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