烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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九世本因坊察元の墓碑(幸手市)

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共同墓地の一画に墓碑があります。



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中央前列にあるのが察元の墓碑



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「本因坊上人之墓」と刻まれている。




 埼玉県幸手市は8世本因坊伯元から10世列元まで三代続けて本因坊を輩出したところです。9世本因坊察元は現在の幸手市平須賀の間宮家の出身で、幼いときに同じ幸手出身の8世伯元の門人となります。




 22歳の頃、伯元の病のため跡目となり本因坊家を継承しました。当時、伯元まで三代の当主が続けて20代で段位も7段に満たない時に亡くなったため、囲碁界全体が勢いを失い「暗雲の時代」と呼ばれていました。



 察元は自分の使命は本因坊家を再び隆盛に導くことと考えていたのか、かなり強引に七段に昇段し、その後八段準名人になった後は名人碁所の座を狙います。察元以前の囲碁界は五世林因長門入が名人碁所を狙った事から林・井上家と本因坊・安井家の2派に分かれて対立していましたが,察元の強引さに反発した安井家が反対派に回り、変わって五世本因坊道知の門下であった祐元が継いだ林家が味方につく展開で対立が続きます。



 最終的に、明和7年(1770)に老中列席のもと寺社奉行の裁定で察元は道知以降空席となっていた名人碁所となりました。



 名人碁所となった察元は、大名行列さながらの行列を組み、京都寂光寺へ墓参りして本因坊家の威光を示します。



 察元の強引な行動により家元の対立が続きましたが、その結果、家元達の自覚を促すこととなり低迷していた囲碁界は再び活気を取り戻す事となりました。また当時の将軍家治は、囲碁・将棋に理解があり特に将棋の腕前は素人の域を超えていたといいます。その家治が自ら御城碁観戦を行った事もあり、囲碁界は「暗雲の時代」をようやく抜け出すことが出来ました。そのため察元は「棋道中興の祖」と呼ばれています。



 死後、本妙寺に歴代本因坊とともに葬られましたが、故郷、幸手市で近年、墓碑が発見されました。




 墓碑の場所:埼玉県幸手市平須賀3018 共同墓地

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