烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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上野駅公園口通路は歴史の舞台の跡地だった。

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入谷改札付近から公園改札側に抜ける公園口通路



 以前、撮影した写真の中に上野駅構内を撮ったものがありました。公園改札から入谷改札に通じる公園口通路で、私も電車の乗り換えでよく歩いている場所です。通路の北側(写真の右側)のホームへ降りる階段付近は江戸時代には車坂という坂がありました。車坂の坂下付近には本因坊の道場があり、本因坊秀策もここで修行しています。
 ところで、公園口通路自体は何があったのでしょうか。江戸時代の地図をみてみると、「顕性院」という寺の跡地である事が分かりました。「顕性院」は上野寛永寺の塔頭の一つで尾張徳川家の初代、義直により創建されました。尾張家は寛永寺に参拝するときに宿坊として利用しています。
 ところで、八代将軍、徳川吉宗の時代である元文4年(1739)に、ここでひとつの事件がありました。享保の改革を推進し質素倹約により幕府の財政再建を図る吉宗と、尾張領国にて規制緩和により経済の活性化を図る藩主、徳川宗春の対立はこの当時決定的でした。六代将軍綱吉の命日にあたり吉宗が寛永寺に参拝する事になり、慣例では御三家や徳川一門が同行する事になっていましたが、宗春については自粛するよう家臣が進言します。
 しかし、宗春は出席を強行しようとし、顕性院に赴き待機します。しかし、吉宗は宗春が待機している事を聞き参拝を急遽取りやめてしまいました。数日後、幕府より宗春に対して隠居と謹慎が申し渡されます。謹慎は生涯解かれる事はなく、死後も墓に金網がかけられたといいます。
 宗春の隠居により尾張藩では彼の政策は全て否定され質素倹約に努めます。しかし、彼の政策により名古屋は大いに発展し現在でも日本有数の都市となっているのです。

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