烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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徳川家継の墓

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芝増上寺の七代将軍・徳川家継の墓
   
   
   
 七代将軍徳川家継は歴代将軍の中で最も若く、わずか四歳で将軍に就任しています。父の家宣が48歳で六代将軍に就任して三年半で病死したためですが、他の兄弟も幼くして亡くなり実子が家継一人となったためです。また、家宣は家継が幼すぎるため死の間際、側近の新井白石を呼び次期将軍について相談しています。一つは尾張の徳川吉通を将軍に迎え、家継が成長するのを待つ案。もう一つは家継が将軍になり吉通は家継の世継ぎとなって政務を代行する案を提示します。しかし白石は尾張家から幕府へ家臣が入り軋轢が生まれる事を懸念し反対したため後継が決まらないまま家宣が亡くなり家継が正徳3年(1713)に将軍となりました。
 家継は利発であり将軍の器を備えていたといわれますが幼すぎたため、政務は家宣の側近であった新井白石、間部詮房、家継の生母、月光院が取り仕切ります。特に大奥では月光院と家宣の正室であった天英院の勢力争いが激化していきます。そんな中、正徳4年(1714)に月光院の側近であり大奥を取り仕切っていた年寄の絵島が月光院の代理として芝増上寺にある家宣の廟へ参拝した帰りに「山村座」で芝居見物の後、接待を受けたため門限までに帰れないという出来事がおこりました。当時、表向きは芝居見物は禁止されていましたが普段は見過ごされていたにもかかわらず、この時は問題視され、絵島が人気役者生島と密通したとの疑いもかけられます。町奉行や大目付の徹底した取調べの末、江島は信州高遠藩へ流罪となります。江島の兄弟は死罪となり、生島や山村座座長は遠島になる等、大勢の人々が処分されました。
 「絵島生島事件」と呼ばれるこの事件により月光院の権勢は著しく低下し、天英院派の勢力が拡大したため、事件は月光院、白石、詮房を追い落としたい天英院一派と綱吉時代の幕臣達による、でっちあげであるという説もあります。
 家継は将軍就任から4年後の8歳の時に病死しますが、後継は天英院が推す紀州の吉宗に決まります。

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| 江戸時代 | 11:24 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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