烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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本因坊候補の雁金準一の墓所

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雁金準一の眠る顕本寺



 雁金準一は明治12年、東京都本郷の生まれで4歳で囲碁を始め、その後、囲碁好きであった内閣総理大臣・伊藤博文の家に書生として住み込みます。日清戦争勃発で政府機能が広島大本営に移転した際や、下関条約締結時にも同行し、各地で囲碁を対局して「囲碁打小僧」として名を知られるようになりました。



 1896年に方円社へ入塾しますが、実際は社長・中川亀三郎の内弟子だったようです。亀三郎は準一を養子とする意志がありましたが実現せず亀三郎の死後、方円社を退社し本因坊秀栄の門下となりました。



 秀栄は門下最大の実力者であった田村保寿を嫌っていたため正式に後継者を決めないで亡くなりましたが将来性を期待して準一を後継にと口にしていたため坊門が二つに割れてしまいます。結局、秀栄の弟、16世本因坊秀元が20世を再襲し、一年後に田村に本因坊を譲り21世本因坊秀哉が誕生します。



 準一は、その後、坊門から遠ざかりますが今度は15世井上田淵因碩の死亡で一門より後継者に選ばれました。しかし、井上門下の恵下田栄芳が強引に16世を襲名したため実現しませんでした。



 度々、家元の後継者に選ばれた事からも分かるとおり実力と共に性格も大変よかったようですが、逆にどんな手を使っても後継者になるという強い思いが無かったため、ついに家元にはなれませんでした。



 日本棋院設立には参加しますが、棋正社を結成して離脱。大正15年に棋院と争碁「院社対抗戦」が始まりますが、秀哉と対等に戦えるのは準一しかいませんでした。結果は大熱戦となりましたが準一の時間切れ負けでした。主催者で新聞に経過を掲載した読売新聞は発行部数を一挙に伸ばしたといいます。準一はその後、昭和34年に亡くなるまで棋院へは最後まで復帰しませんでした。



 墓所は顕本寺です。囲碁史をまとめた本「囲碁史探偵が行く」(福井正明九段 2008年発行)には雁金家の墓の写真が載っていましたが、今回訪れてみると墓が新しくなっていました。墓石の側面に刻まれた名前も昭和後半以降に亡くなった人のみで、「準一」という名はありません。囲碁史ファンとしては残念ですが時の流れとはそういうものなのでしょう。したがって今回は墓については撮影しませんでした。





 顕本寺 住所:東京都文京区向丘2丁目28-2

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| 本因坊家 | 23:01 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT

No title

雁金準一が主人公の小説があるのをご存知でしょうか。
「落日の譜 雁金準一物語」という作品で2012年に単行本が出ています。作者は官能小説の第一人者として知られた団鬼六で、この作品が絶筆となっています。団氏は囲碁や将棋を趣味として将棋についてはアマ六段の腕前だったそうです。残念ながら、作者の急逝により未完で終わりましたが、囲碁棋士・高木祥一九段による解説「その後の雁金準一」を加えて出版にこぎつけたそうです。興味のある人はご一読ください。

| 烏鷺光一 | 2014/06/01 20:09 | URL | ≫ EDIT

No title

囲碁の名人と言われる、この方と同姓同名の者です。でも、囲碁はまったくできません。
私は、昭和33年生まれなので、私が生まれた翌年に亡くなられており、何か巡り合わせみたいなものを感じます。

| 雁金 準一 | 2014/06/01 12:37 | URL | ≫ EDIT















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