烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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林柏栄門入をスカウトした市川海老蔵(団十郎)~青山霊園

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市川団十郎の墓【中央の墓が歴代団十郎の墓(初代~8代)、右が9代目団十郎、左が9代目の夫人】
                  


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右が10代目団十郎と夫人の2代目市川翠扇の墓。左は11代目団十郎の墓
          
              
                 
 歌舞伎役者の中でも最も権威のある名跡といわれる「市川団十郎」の墓が青山霊園にあります。
 初代が団十郎を名乗ったのは延宝3年(1675)の事で、以来、現在の12代目まで礿340年間、江戸歌舞伎の中心として活躍しています。
 歌舞伎は戦国時代に京都で出雲阿国が始めたとされ、能舞台を模した舞台で踊りの要素を取り入れた演劇を行い、庶民の娯楽として発展してきました。
 質素倹約を目指した天保の改革では歌舞伎は綱紀粛清の対象となり廃止されそうになります。しかし、庶民から娯楽を奪うことに反対であった当時の北町奉行・遠山金四郎景元により江戸郊外の浅草へ芝居小屋を集約させるだけで済みました。歌舞伎を救った恩人である遠山金四郎は、名奉行として芝居の主人公となり現在でもテレビドラマが放映されていま。
 ところで歌舞伎と囲碁界が交わることが無かったのかと調べてみると、次のような逸話があることがわかりました。
 囲碁の家元・林家の12世当主である柏栄は11世林元美の息子で16歳まで成田山新勝寺の小姓を務めていました。
 屋号に成田屋を名乗るほど同寺と繋がりが深かった市川家の市川海老蔵は、柏栄を見かけ養子にして歌舞伎役者に育てたいと申し込みます。それほど柏栄は美男子だったのですが、結局この話は実現せず柏栄は囲碁の道に進み林家を継承していきます。
 ところで、この逸話に出てくる市川海老蔵とは誰の事でしょうか。柏栄は文化2年(1805)の生まれで文政4年(1821)には16歳となっています。
 当時の市川海老蔵とは5代目海老蔵と考えられます。五代目海老蔵は、寛政3年(1791)に5代目市川団十郎の孫として生まれ叔父である6代目団十郎の養子となります。
 寛政6年(1994)に、初代市川新之助として初舞台を踏み市川ゑび蔵(5代目市川海老蔵)を名乗った後、寛政11年(1799)に先代の急死により10歳にして7代目市川団十郎を襲名しました。
 7代目団十郎は先輩たちに揉まれながら人気と実力を兼ね備えていきますが、天保3年(1832)に息子である6代目海老蔵に8代目団十郎を譲り、自らは5代目市川海老蔵を名乗りました。
 林柏栄が16歳になる頃に海老蔵と名乗っていたのは6代目ですが当時は3~5歳くらいで幼すぎますので、その後、柏栄が囲碁界で有名になった時期に海老蔵を名乗った5代目海老蔵が柏栄を養子として迎えようと考えていたのでしょう。
 5代目市川海老蔵は、先に紹介した天保の改革による歌舞伎界への弾圧により天保13年(1842)に江戸を追放となります。
 派手な生活、服装をしているという理由ですが有名人を見せしめとすることで改革の効果を狙ったものと考えられています。
 しかし、皮肉なことに江戸を追放となった海老蔵は名前を変えながら大阪など各地で舞台に立ち続け江戸歌舞伎を広めました。赦免され江戸に帰った後も、度々上方で舞台に立ち、安政6年(1859)に亡くなっています。
 青山霊園では8代目までの歴代団十郎が一つ墓でまとめられて、その中の一人として葬られています。
                     
 墓の場所 青山霊園 1-イ21号-12


 
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