烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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第二代内閣総理大臣・黒田清隆(青山霊園)

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黒田清隆の墓(中央)と妻・清の墓(右)

                     
                       
 黒田清隆は薩摩藩出身で薩長同盟成立においては薩摩側の使者として同盟成立に尽力しています。
 戊辰戦争では函館の五稜郭攻略に参謀として参加しますが、戦後は榎本武揚らの助命嘆願に動いています。
 明治新政府では重責を担い明治21年には伊藤博文の後を継いで、第二代内閣総理大事に就任しました。
 内閣総理大臣就任中の主な出来事として大日本帝国憲法発布があります。黒田内閣では伊藤内閣から引き継いだ外国との不平等条約改正を推進しますが、改正案に外国人の裁判官を置くという内容が盛り込まれていたため、主導した大隈重信外務大臣が襲撃される事件が起ります。この事件がきっかけで政権は行き詰まり、組閣からわずか1年ほどで倒れてしまいました。
 黒田は酒癖が悪いことで有名で色々な話が残されています。(北海道)開拓使長官時代に商船乗船中、酒に酔って面白半分に大砲を発射し住宅に直撃したため死者を出すという事件も起こしています。
 しかし、最も有名なのが酒に酔って妻を殺害した嫌疑がある事です。
 明治11年に病気がちだった妻の清が死亡しますが、直後に清は酒に酔って帰宅した清隆と口論になり斬殺されたとの噂が拡がります。真相究明を求める世論が大きくなり、当時政府のトップであった大久保利通の命を受け、大警視(警視総監)川路利治が墓を掘り返し検視を行った結果、病死と発表します。
 しかし、当時は西南戦争が勃発した直後で、政府に対する不満が高まっていました。真相は定かではありませんが、大久保も川路も薩摩出身であった事から黒田を庇ったと考える人々も多く、この出来事が同年の大久保利通暗殺の一因となったとも言われています。
 黒田は明治33年に亡くなりますが、葬儀委員長は命を救った榎本武揚が勤めました。墓所は青山霊園にあり、隣には妻の清が葬られています。
     
  場所:青山霊園 1-イ1-9~10
 
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| 明治・大正時代 | 12:02 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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