烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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高野長英 大観堂学塾跡



Dsc_0440  Dsc_0439

「大観堂学塾跡」のプレート



Dsc_0438

「貝坂」の標識。この標識のある交差点に塾跡のビルもあります。



 千代田区平河町に貝坂という坂があります。
 その標識がある交差点に建っているビルの壁に「麹町貝坂 高野長英 大観堂学塾跡」というプレートが埋め込まれていました。
 高野長英は幕末に活躍した蘭学者で医者です。仙台藩領水沢の出身で養父が蘭学医であった事から幼い頃から蘭学に興味を持ちます。
 江戸で蘭学を学んだ後、文政3年(1820)、長崎へ留学しシーボルトの鳴滝塾で更に医学、蘭学を学んでいます。学力が抜きでていたため、この時、塾頭を務めていたそうです。
 文政11年(1828)にシーボルト事件が発生。長英は難を逃れ江戸へ帰り麹町に町医者として蘭学塾を開きます。それが「大観堂学塾」です。
 この頃、長英は三河国田原藩の渡辺崋山と出会い、蘭学の研究に協力しています。蘭学書の翻訳に当たり、ピタゴラスやガリレオ・ガリレイをはじめて日本に紹介しました。
 また、崋山とともに蘭学者や儒学者によるシンクタンク「尚歯会」に参加し「天保の大飢饉」の対策等を提言しています。
 「尚歯会」の提言は政治・経済・海防など多岐にわたり、老中・水野忠邦も外交問題で取り入れようとしますが儒学を担う林家の出身であった幕府目付・鳥居耀蔵は蘭学者の台頭を快くおもっておらず幕府批判を口実に弾圧に乗り出します。
 「蛮社の獄」と呼ばれる弾圧事件では多くの蘭学者がでっちあげの罪により捕えられますが、長英も永牢(終身刑)となり伝馬町牢屋敷に収監となります。6年後に火災に乗じて脱獄した長英は門人達の協力により各地を転々としますが嘉永3年(1850)に江戸青山に潜伏中に奉行所に踏み込まれた際、死亡しました。(自害と届けられていますが獲方が殺害したという説もあり。)
 ちなみに、長英達を弾圧した鳥居耀蔵は後に南町奉行となり水野忠邦の天保の改革を推進していきます。当時の北町奉行は有名な遠山金四郎で政策的に対立していた鳥居は芝居やドラマで悪人として描かれています。鳥居は策略により遠山を失脚させます。しかし、一時的に失脚した水野を見限ったため復権した水野により職務怠慢等の罪で罷免。財産没収のうえ幽閉されてしまったそうです。



 場所:千代田区平河町1-6-13

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