烏鷺光一の「囲碁と歴史」

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

高松城主・花房職秀と囲碁

 高松城は、水攻めの後に宇喜多領となり、家臣の花房正成が城主として入城します。その後、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで宇喜多秀家が西軍に味方したため改易となり、新しく徳川方に味方した花房職秀(職之)が新城主となります。職秀と正成は同じ花房氏ですが直接は関係ないようです。
 花房職秀は元々、宇喜多家の家臣でしたが秀家が重臣の長船綱直ばかりを重用することを諫言したため怒りを買い秀家に殺されそうになります。しかし、秀吉や家康の仲介で助けられ、常陸国の佐竹義宣に預けられていました。なお、この出来事は後に宇喜多氏のお家騒動の遠因となったともいわれ、宇喜多家は多くの有能な家臣が離れ弱体化することとなったとも言われています。
 この騒動で職秀の命を助けた豊臣秀吉ですが実は、それ以前に花房職秀を殺そうとした事があります。秀吉の小田原征伐に秀家に従い従軍した職秀は、石垣山城で能や茶会などを催して一向に城攻めを仕掛けない秀吉に腹を立て、石垣山城門で出会った秀吉に対し馬に乗ったまま相対したため咎められますが、「腰抜けの大将に下馬する必要はない」と言い放ちます。秀吉は激怒しますが、この時は秀家の取りなしで事なきを終え、逆に気に入られて加増されたといいます。さすが秀吉、度量が大きいというべきでしょうか。
 職秀は大阪の陣では老骨に鞭打ち、輿に乗って差配したと言われ、息子は榊原姓を名乗り徳川家の旗本に取り立てられました。
 高松城は職秀の死後、一国一城令で廃城となったと考えられています。>

Imag4522
高松城址公園

 花房職秀には囲碁にまつわる話が残されています。備前国の出身であった職秀は若い頃、国元を出奔しています。それは囲碁の対局で口論となり相手を殺してしまったためと言われています。いかさまをした相手に激怒して相手を碁盤で殴り殺したとも伝わっています。曲がった事が嫌いな職秀らしいエピソードとも言えます。
 一方、八丈島に流罪となった旧主・宇喜多秀家に、毎年二十俵の米を送っていたとも言われています。
 職秀の墓は「清水宗治公自刃之跡」の供養塔がある妙玄寺にあるそうです。たしかに花房と刻まれた新しそうな墓を見かけたので、その近くにあったのかもしれませんが、取材時はそのまま通り過ぎてしまったので確認できませんでした。残念。

Imag4526
高松城址公園

高松城址公園:岡山市北区高松558-2

スポンサーサイト

| 囲碁が関わった出来事 | 23:21 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT















非公開コメント

TRACKBACK URL

http://igoshi.blog.fc2.com/tb.php/58-9199bd98

TRACKBACK

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。