烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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囲碁が原因で改易となった大名 水野忠胤

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慶長年間(1608年頃)の江戸の地図と日比谷見附跡

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水野忠胤の屋敷跡付近の日比谷公園の心字池

 江戸に幕府が出来て間もない慶長年間(1608年頃)の地図を見ると、日比谷見附のすぐ隣に水野市正という屋敷があることが分かります。
 市正は官位であり、正式には水野忠胤という大名です。
 忠胤は徳川家康の従弟で、関ヶ原の戦いの功績で三河に領地を与えられ三河水野藩主となります。
 慶長14年(1609)9月に忠胤は親戚にあたる遠江浜松藩主・松平忠頼を招き茶会を開きます。
 この時、囲碁の対局をしていた忠胤の家臣が口論となり仲裁に入った忠頼を斬り殺してしまうという事件が発生します。忠頼が親交のあった片方の対局者に色々と助言したのが原因とも言われています。
 この事件の責任を取らされて忠胤は切腹となり藩も改易となりました。浜松藩も忠頼の息子が幼少であったため改易となっています。
 幕府が出来て日が浅く、徳川家の親戚といえども厳しく対処せざる負えなかったのでしょう。>
 日比谷公園の心字池は昔、濠だった場所とのことですから、水野邸は池の東側(日比谷通り側)になります。

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