烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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南総里見八犬伝のモデル。里見忠義と八人の賢士の墓

 倉吉市内、白壁土蔵群の近くにある大岳院は江戸時代初期の慶長10年(1605)に伯耆国を領地とした米子藩重臣で打吹城主の中村栄忠が、父の中村一栄の菩提寺として創建しました。
 中村一栄は、豊臣政権三中老の一人で駿府城主であった中村一氏の弟で、一氏の死後、その子・中村一忠が米子藩主となると、その補佐を行います。父の後を継いだ栄忠は打吹城主となり大岳院を創建したのです。しかし、中村氏は内紛から1609年に改易され、米子藩は廃藩となり鳥取藩へ吸収されています。



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大岳院山門(左)と鐘楼門(右)



 大岳院には江戸時代の大ベストセラー「南総里見八犬伝」のモデル、安房国・舘山藩最後の藩主・里見忠義と八人の賢士の墓があります。
 滝沢馬琴の書いた「南総里見八犬伝」のストーリーは次のとおりです。
 戦国時代、安房国滝田の城主・里見義実は、隣国の館山城主安西景連に攻められ落城寸前となります。この時、安西を打ち取ったものに娘の伏姫を与えるといったところ、愛犬八房が敵将安西景連を討ち取り、伏姫を連れて富山の洞窟に籠ってしまいます。
 伏姫の許嫁であった金碗大輔は、伏姫を取り戻しに富山の洞窟へ行き八房を殺害しますが、八房の気を感じて身ごもってしまっていた伏姫は、身の純潔を証明するため自害します。この時、伏姫が身に着けていた数珠から「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の文字が浮かび上がり、散り散りに遠くへ飛び去って行きました。
 金碗大輔は法師となり、飛び去った八つの玉を探す旅にでました。やがて関八州(関東地方)に、犬で始まる苗字を持ち、体に牡丹のあざがある(八房には牡丹のあざがありました)、文字(仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌)の浮きでる玉を持つ若者、「八犬士」が生まれます。
 八犬士は不思議な縁で結びつき金碗大輔により里見義実のもとへ帰ります。そして、里見家の家臣として里見家の危機を救い、それぞれ義実の八人の孫娘を娶り、その後、子どもたちに家督を譲ってからは、富山の山中へ姿をかくして仙人になったというストーリーです。



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里見忠義と八人の賢士の墓
   

 実際の里見家ですが、江戸時代初期の安房国・舘山藩12万2千石の大名で二代藩主・里見忠義は老中・大久保忠隣の孫娘を妻に娶ります。ところが、忠義は慶長19年(1614)に突然、伯耆国・倉吉藩3万石へ移封されます。これは大久保忠隣の与力であった大久保長安が起こした疑獄事件「大久保長安事件」の連座で、実質的な改易・流罪の処置だったようです。しかも、実際に与えられたのは4千石程度で城にも入れず大岳院の門前で暮らしていました。(その後、4千石も池田光仲に取り上げられ百人扶持となっています)
 後に住居を現在の関金町へ移しましたが、元和8年(1622)に病死し里見家は滅亡しました。、忠義公は遺言により大岳院へ葬られます。
 忠義公が亡くなった時、舘山藩時代から仕えていた家臣8人が殉死しています。主人・忠義公の戒名には「賢」の字が用いられたため8人の家臣の戒名にも「賢」の字が用いられます。主人に殉じた8人は「里見八賢士」として江戸でも評判となります。滝沢馬琴は、この出来事をヒントに物語を作ったと考えられています。



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本堂(左)と里見忠義公の遺品の皿(現地案内板より)(右)




大岳院:鳥取県倉吉市東町422



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