烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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新田義貞の弟 脇屋義助の墓

 淀屋の墓がある倉吉市の大蓮寺には鎌倉時代末期から南北朝時代の武将・新田義貞の弟、脇屋義助の墓もあります。
 新田義貞は源氏一門の新田氏の頭領でしたが、後醍醐天皇の討幕の動きに足利尊氏と呼応して協力します。新田義貞が討幕に動いたのは幕府の使いが軍事費捻出のために高圧的に徴税を迫ったために激昂した義貞が切り殺したのが直接の理由です。当初は討伐に動く幕府軍に対して防戦による消極的な対応が検討されていましたが、脇屋義助の演説により、こちらから攻めるという積極的な対応へと方針転換します。足利尊氏が六波羅を攻めたのに対し義貞は鎌倉に侵攻し、ついに鎌倉幕府を滅亡に追い込みました。
 その恩賞問題で義貞に比べ冷遇された足利尊氏が新政から離反すると義貞は朝廷の命で尊氏と戦い九州へ追いやります。しかし、北朝初代となる光厳上皇を味方につけた尊氏は新田義貞追悼の院宣を得て勢力を盛り返し京都へ再度侵攻しました。
 新田義貞は、やがて戦死しますが軍勢は弟の脇屋義助が引き継ぎ奮戦しています。そうした中、1342年に四国で発病した儀助は38歳の生涯を終えました。
 なぜ、倉吉に墓があるかよく分かりませんが、新田氏の一門でありながら足利尊氏に従い恩賞として伯耆・出雲等の守護となった山名時氏が倉吉に居城を築いたことが関係しているのではないかと思います。




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脇屋義助の墓



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案内板




大蓮寺:鳥取県倉吉市新町1-2411

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