烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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日本の6分の1を支配した山名氏 山名時氏の墓

 倉吉市の北側にある山の中腹にある「山名寺」に鎌倉時代末期から南北朝時代の有力守護大名、山名時氏の墓があります。



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山名氏の菩提寺 山名寺




 山名氏は源氏・新田氏の一族ですが山名 時氏の母は上杉家の祖・上杉重房の娘で、足利尊氏の母親とは従姉妹という関係でした。
 足利尊氏と新田一族の惣領である新田義貞が争うと尊氏に味方し、その恩賞として伯耆・出雲・隠岐守護となって倉吉に居城を築きます。その後、若狭守護にも任命されました。
 1350年に足利尊氏の弟・直義と、足利家執事の高師直が対立した「観応の擾乱」が起こると、時氏は南朝に属し直義に従います。翌年、直義が死去しますが出雲へ進攻し領地を拡大。足利直義の養子(尊氏の庶子)である足利直冬を奉じて戦いを続けました。
 幕府は戦いが小康状態になると山名氏に対して帰順工作を行い、時氏は領国の安堵を条件に直冬から離反します。結果、山名時氏は伯耆・丹波守護に、嫡男の師義は丹後、三男・氏冬は因幡、五男・時義は美作守護に任命され、山名氏は5ヶ国の守護となり、引付頭人として幕政にも参加していきます。
 山名家繁栄の基礎を造った時氏は1371年に69歳で死去し現在の山名寺に葬られましたが、南北両朝や守護大名同士の抗争に付け込んで勢力を拡大したため、太平記では「多く所領を持たんと思はば、只御敵にこそ成べかりけれ」と人々が噂し合ったと記されています。
 山名家は嫡男の師義が跡を継ぎ更に勢力を拡大し11ヶ国の守護となります。当時、日本は66ヶ国あり、その6分の1を支配したため、「六分の一殿」と称されるほどの権勢を誇ります。しかし、それが三代将軍義満に危険視され、謀略により一族同士の抗争を仕掛けられ幕府軍が介入した「明徳の乱」により因幡・伯耆・但馬の3ヶ国のみの守護まで勢力が衰退します。山名家はその後、時氏の曾孫・山名持豊の時に再び勢力を拡大します。持豊こそ出家後に「山名宗全」と名乗り全国を戦乱の渦に巻き込み、戦国時代に突入するきっかけとなった「応仁の乱」で西軍総大将を務めた人物です。




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山名時氏の墓




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山名家関連の墓石(左)と、時氏の墓の隣りにある三明寺古墳の石室(右)




山名時氏の墓:鳥取県倉吉市巌城956 山名寺

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