烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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本因坊秀栄の屋敷跡

 湯島天神の近くに十七世、十九世本因坊秀栄が晩年を過ごした屋敷跡があります。
 十四世本因坊秀和の次男として生まれた秀栄は11歳の時、囲碁家元の林家の養子となり、やがて十三世林秀栄となります。
 明治維新を迎え各家元への幕府の支援が無くなると、過酷な生活により本因坊家を継いだ兄の十五世本因坊秀悦が精神に異常をきたします。そこで、弟の秀元を十六世としますが、まだ段位が低かったため、村瀬秀甫や中川亀三郎らにより組織された「方円社」の勢いに押され、囲碁家元側は益々、勢いを失っていきます。
 秀栄は事態を打開しようと、林家を絶家して本因坊家へ戻り、十七世本因坊秀栄となります。その後、方円社社長の村瀬秀甫と和解し、秀甫が十八世本因坊となりますが、秀甫の死亡により秀栄が十九世本因坊を再襲しました。
 本因坊家を再襲した秀栄は棋力も充実し、坊家は方円社を凌ぐ勢いとなり、方円社からも多くの人材が移りました。
 湯島天神の近くにある屋敷は、そうした絶頂期に秀栄の支援者であった高田商会の高田槙蔵・民子夫妻より提供されたものだそうです。秀栄の屋敷や、すぐ近くにある高田夫妻の屋敷では三段以上を参加資格とした研究会「四象会」が定例的に開かれています。
 秀栄は後継者を決めずに亡くなっています。門下で一番の実力者は、元方円社社員であった田村保寿でしたが、秀栄は田村のことを金銭に汚いなどの理由で嫌っていたためで、明治39年(1906)の秋から寝込みがちになると、田村を露骨に嫌うようになり、面会も許さなくなります。田村は翌年に、方円社の中川亀三郎との打ち掛けの碁の講評を仰ぐ形で秀栄へ手紙を出しています。しかし、実際には方円社に対して前面に出て対してきた自分を見限ろうとしていることを暗に非難する内容でした。秀栄は、その十日後に後継を定めないまま亡くなります。
 今回、探し出した秀栄の屋敷跡は田村保寿(本因坊秀哉)が師匠へ出した手紙に記載された住所により特定したものです。同じく、当時の田村の屋敷跡の場所も特定していますので、いずれ取材したいと思います。



Imag2394
本因坊秀栄屋敷跡(白いマンションの辺り)




田村保寿が秀栄に出した手紙に記された住所
 「湯島天神町1丁目77」
 現住所:湯島3丁目22-5 シルクマンション野口



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