烏鷺光一の「囲碁と歴史」

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

霊厳寺 松平定信の墓

 東京都江東区にある霊厳寺は、寛永元年(1624)に日本橋付近の霊巌島に創建され、明暦3年(1657)に江戸の大半を焼失した明暦の大火により焼失。万治元年(1658)に現在地に移転しています。

Imag2654

霊厳寺境内

 霊厳寺は「寛政の改革」で有名な松平定信の墓所としても知られています。定信は宝暦8年(1758)に、御三卿の田安徳川家の初代当主・徳川宗武の7男として生まれます。つまり、八代将軍・徳川吉宗の孫にあたる人物です。
 幼少期より聡明で知られ、田安家を継いだ兄の治察が病弱だったため、一時期は田安家の後継者、そして第10代将軍・徳川家治の後継と目されていたそうです。しかし、当時、幕閣を仕切っていた田沼意次の政治を「賄賂政治」と批判していたため、安永3年(1774)に久松松平家の庶流で陸奥白河藩第2代藩主・松平定邦の養子に出され将軍候補から外されてしまいます。その後、田安家では治察の死去により後継が不在となりますが定信の復帰は許されず、田安家は十数年にわたり当主不在となっています。
 こうして白河藩主となった定信は天明の飢饉を藩政改革で乗り切り、その手腕も評価され、田沼意次が失脚した後の天明7年(1787)に老中首座へ就任します。
 老中首座となった定信は、旧田沼派を粛清し、祖父・吉宗の「享保の改革」を手本に「寛政の改革」を実施し、幕政再建に取り組みます。田沼意次は重商主義の政策をとったため利権政治となった事から、定信は朱子学に基づき、厳しい倹約政策、役人の賄賂人事の廃止を徹底します。そのため「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」などと揶揄されています。そうした厳しさから、やがて孤立して定信は失脚。その後、藩政に専念し文政12年(1829)に72歳で亡くなっています。

Imag2665
松平定信の墓

 霊厳寺には宝永から享保年間にかけて江戸市中の六箇所に造立された銅造地蔵菩薩坐像「江戸六地蔵」のひとつがあります。霊厳寺の地蔵は大五番目で、享保二年(1717)に建立されています。

Imag2659
銅造地蔵菩薩坐像


東京都江東区白河1-3-32


スポンサーサイト

| 江戸時代 | 22:22 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT















非公開コメント

TRACKBACK URL

http://igoshi.blog.fc2.com/tb.php/379-4f8e3d54

TRACKBACK

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。