烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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飯盛山の史跡

 飯盛山には白虎隊士の墓と自刃の地以外にも様々な史跡があります。



 「さざえ堂」は、正式名称は「円通三匝堂」(えんつうさんそうどう)といい、平面六角形の特異な建物で、内部には二重らせん構造の斜路が続き、右回りに上る斜路と左回りに下りる斜路が別々に存在します。入口から斜路を最上階まで上り、、別の斜路を降りて出口に至るため、他者とすれ違うことない構造となっています。



 かつてこの地にあった正宗寺の仏堂として、寛政8年(1796)に建立され、国の重要文化財に指定されています。



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さざえ堂



 



 さざえ堂の境内に隣接する宇賀神堂は、寛文年間(1661~1672)に宇賀神を勧請し弁財天像を神像として社殿を建立したのが始まりで、現在は飯盛山で自刃した白虎隊19士の霊像が安置されています。



 



 近くには、戸ノ口堰洞穴がありました。戸ノ口堰は猪苗代湖から会津へ水を引く為に掘られた堰で、飯盛山の中腹に掘られた約150mのトンネルの完成により会津地方では2500ヘクタールのかんがいが可能となったそうです。戊辰戦争では白虎隊士中二番隊20名が,敵に見つからないよう、この洞穴を通って退却しました。そして、この先から煙の立込める会津城下を眺めて切腹するという悲劇が起こったのです。



                      
             



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宇賀神堂(左)と戸ノ口堰洞穴(右)



 
白虎隊士の墓がある広場にも様々な碑があります。



「会津藩殉難烈婦」の碑は、中野竹子に代表される戊辰戦争において新政府軍と戦い自刃あるいは戦死した婦女子二百余名の霊を弔うために、昭和三年に建立されました。



 



 飯盛山で切腹した白虎隊士の遺体は埋葬が許されずそのまま風雨にさらされていました。滝沢村の吉田伊惣次は、見るに見かねて村人とともに遺体を密かに運び出し、近くの妙国寺に埋葬します。吉田は、このため新政府軍に捕らわれ尋問を受けますが政治的背景もなく、見るに見かねての行為であったため、後に釈放されました。そんな彼の行為に対して彼の死後に有志により碑が建てられたそうです。



 



                   
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会津藩殉難烈婦の碑(左)と吉田伊惣次氏篤志の碑(右)



 



 同じく白虎隊士の墓の前の広場には、「ローマ市寄贈の碑」が建っています。白虎隊士の精神に感銘を受けたローマ市より昭和3年に送られたものです。



 円柱の岩は、西暦79年に火山の噴火で埋没した古代ローマ都市ポンペイで発掘された神殿の石柱です。ちなみに、送ったのは当時イタリアで独裁体制を敷いていたムッソリーニだそうです。

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ローマ市寄贈の碑

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