烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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興徳寺~蒲生氏郷の墓

 会津若松市の興徳寺は、弘安10年(1287)に会津を拠点とした有力大名・蘆名氏により創建された臨済宗の寺院です。


 天正17年(1589)に伊達政宗と蘆名義弘が奥州覇権をかけて行った「摺上原の戦い」で政宗が勝利し会津を手に入れました。この時、政宗は興徳寺を会津支配のための仮館としています。


 翌年には、小田原攻めで北条氏を滅ぼした豊臣秀吉が天下統一の総仕上げとして奥州仕置を行いますが、この際、興徳寺に数日間泊まっています。(豊臣秀吉公當寺滞在中書刻碑が境内にあるそうですが見落としてしまいました。)


 奥州仕置では、政宗がようやく手に入れた会津は没収され、秀吉配下の蒲生氏郷が新領主となりました。


 蒲生氏郷は元々、織田信長に人質として預けられていましたが、その才覚を信長に見込まれて信長の娘と結婚しています。


 本能寺の変では明智軍と戦い、後に秀吉の傘下に入りました。


 氏郷は文人としても才能に溢れ、茶道では千利休の高弟・利休七哲の一人として利休切腹後の千家再興に尽力しました。




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境内の様子




 蒲生氏郷は文禄4年(1595)に京都伏見の屋敷で病死しました。遺体は京都大徳寺に葬られましたが、息子の秀行により興徳寺にも墓(五輪塔)が建てられました。墓には遺髪が収められたそうです。享年40歳


 境内には氏郷の辞世の句碑が建立されています。


  「限りあれば 吹かねど花は散るものを 心みじかき 春の山風」

  (花の一生には限りがあり、風など吹かなくても、いつかは散ってしまう。それなのに何故春の山風は短気に花を散らしてしまうのか。)


 病に倒れなければ秀吉の跡の天下を十分狙えた逸材だけに、無念さが滲んだ句です。





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蒲生氏郷の墓(左)と辞世の句碑(右)
 

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墓の案内板(左)と境内にあった松平容保の句碑(右)





  会津若松市栄町2-12 



 

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