烏鷺光一の「囲碁と歴史」

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

陸奥宗光・小松帯刀墓所跡

 大阪市営地下鉄谷町線の四天王寺前夕陽ヶ丘駅のすぐ近くで、歌人・藤原家隆の墓の入口付近に陸奥宗光と父親の伊達千広(宗弘)の墓所跡の碑があります。
 伊達千広は紀州藩の重臣で10代藩主・徳川治宝のもと、藩内の攘夷派の中心人物として藩政改革に取り組みます。しかし、治宝が病死すると、幼少の徳川慶福(徳川家茂)を補佐する改革反対派が実権を握り握り千広は失脚。危険思想を広めたとして、以後10年近くにわたり幽閉されます。文久元年(1861)に一旦釈放されますが、翌年には脱藩して尊皇攘夷運動に参加したため捕まり、再び幽閉の身となります。明治維新後に幽閉が解かれ、千広は大阪に移り住み、敬愛していた藤原家隆ゆかりの地に「自在庵」という庵を建て、その地を「夕日岡」(夕陽丘)と命名しています。
 一方、陸奥宗光は伊達千広の六男で父の影響で尊王攘夷思想を持つようになります。文久3年(1863)、勝海舟の神戸海軍操練所に入り、慶応3年(1867)には坂本龍馬の海援隊に加わり龍馬のもとで活躍します。明治以降は新政府で活躍。伊藤内閣の外務大臣として不平等条約の改正に辣腕を振るっています。二人とも夕陽丘に葬られていましたが、昭和28年に墓は鎌倉へ改葬されています。
 また、この地には薩摩藩家老・小松帯刀も埋葬されていたそうです。幕末に国事に奔走し薩長同盟や大政奉還を成し遂げますが病で明治3年に大阪で死亡。夕陽丘に葬られますが、明治9年に故郷の鹿児島へ改葬されています。



Imag3154
伊達家・陸奥家 墓所跡



 伊達家・陸奥家の墓所跡には二つの大きな碑があります。向かって右側の石碑は「夕日岡阡表」といって、陸奥宗光が父・伊達千広の行実を漢文で述べたものだそうです。左側に建っているのが「陸奥宗光追慕碑」で、宗光の秘書を務めたこともある原敬が建てたものだそうです。二つの碑の間にある地蔵は清地蔵(さやじぞう)といって、陸奥宗光の娘・清子(さやこ)が21歳の若さで亡くなったのを悼み、等身大の地蔵を建てたそうです。



Imag3157
現地説明板


大阪府大阪市天王寺区夕陽丘町5-14



スポンサーサイト

| 幕末・明治維新 | 10:38 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT















非公開コメント

TRACKBACK URL

http://igoshi.blog.fc2.com/tb.php/230-325b8dc7

TRACKBACK

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。