烏鷺光一の「囲碁と歴史」

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

林泉寺の史跡



 上杉家の菩提寺である林泉寺では上杉鷹山公の足跡を訪ねることが出来ます。



 境内にあるしだれ桜は樹齢約200年で鷹山公御手植えの桜といわれています。



 春日明神は上杉家の氏神で、歴代藩主の尊崇が厚く、鷹山公は17歳で上杉家を相続された際に立志の誓詞を捧げられています。



Dsc_2087_2  Dsc_2090
鷹山公御手植えのしだれ桜(左)と春日大明神




 上杉家廟所の隣りに武田信玄の六男・武田信清の墓があります。織田信長により武田家が滅亡すると信清は姉で上杉景勝の正室である菊姫を頼って上杉家に身を寄せます。


 以来、信清を初代とする米沢武田家は明治まで上杉家家臣として続くこととなります。




Dsc_2071

武田信玄の六男・武田信清の墓




 林泉寺の墓所に謙信・景勝に仕えた甘糟景継の墓がありました。第四次川中島の戦いでしんがりを務める等、猛将として知られ、徳川家康の会津攻めでは拠点の白石城を任せられますが、妻の急死で会津に戻った隙に伊達政宗により城を奪われてしまいます。


 上杉景勝の怒りはすさまじく処刑こそ免れましたが直江兼続の一配下へ左遷させられ冷遇されます。景継を高く評価していた徳川家康は景勝が冷遇している事を知り2万石で迎え入れようとしましたが、景継は「責任は自分にあり罰を受けるのはもっともな事。今さら二君に仕える気は無い」と断りました。家康は「そういう人物だからこそ欲しかった」とくやしがったそうです。慶長16年(1611)に亡くなりましたが自害ともいわれています。


 ところで、景継の墓もそうですが、米沢地方の墓石は万年塔と言われる独特の形状をした墓石が多くあります。長方形の石の中をくりぬき、側面に穴を開け、上に屋根を乗せた形状は、直江兼続の考案と言われ有事の際にはバリケードに、洪水の際には土嚢として転用できるようにと考えられたものです。



Dsc_2077

甘糟景継の墓




新貝弥七は米沢藩士・喜兵衛安親の二男で、元禄3年に、吉良左兵衛義周(上杉綱憲公の二男で吉良上野介の養子)の小姓を命ぜられて、江戸へ勤めました。
 元禄15年12月14日の赤穂浪士打入の時に、吉良邸玄関先において堀部弥兵衛等の浪士と渡り合い討死しました。腹中に槍の穂先が残っていたと記録にあります。




Dsc_2076

新貝弥七の墓





  山形県米沢市林泉寺1-2-3



スポンサーサイト

| 江戸時代 | 10:27 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT















非公開コメント

TRACKBACK URL

http://igoshi.blog.fc2.com/tb.php/192-ca833b64

TRACKBACK

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。