烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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泉岳寺 高島嘉右衛門の墓

 泉岳寺では、一般の檀家の墓は関係者以外、立ち入り禁止となっていて、赤穂浪士の墓所は一般に公開されています。そして、もう一つ一般公開されているのが高島嘉右衛門(たかしまかえもん)の墓です。
 高島嘉右衛門は幕末から明治期にかけて活躍した実業家で易断家としても知られています。毎年発行される暦に高島易断発行のものがありますが、そのルーツで「易聖」と呼ばれていたそうです。
 実業家としての嘉右衛門は、22歳の頃に材木屋を始め、安政6年(1859)には物産店を開いています。しかし,万延元年(1860)に貨幣密売の罪で慶応元年(1865)まで小伝馬町に投獄されます。出所後、横浜で事業を再開し材木商として巨万の富を得、明治以降は旅館業等も営みます。東京から横浜まで鉄道が敷かれた際、政府の要請で横浜湾の埋め立て事業を行い、その場所は高島町と名付けられました。(現横浜市西区)
 易断家としては、嘉右衛門は小伝馬町投獄時に牢内に残されていた易経により学んだと言われ普段の生活の中でも卦を立てていました。事業の成功も卦を立てた結果と言われ、明治9年に隠居した後は易の研究を行って、集大成として「高島易断」を著しました。
 嘉右衛門の占いの的中率は抜群でしたが、決して占い自体を商売としないで事業の顧客へのサービスとして行います。また、政府高官や政治家は政策決定の際に占ってもらったと言われています。また、囲碁界でも有名な、李氏朝鮮の政治家・金玉均も亡命中に嘉右衛門と親交を結び易断を学んだとも言われています。
 政治家・伊藤博文は嘉右衛門と親しく、嘉右衛門の長女は博文の長男と結婚しました。伊藤博文は明治42年に韓国で暗殺されますが、訪韓の際に嘉右衛門はこれを予見し、中止を訴えています。しかし、博文はこれを聞き入れず暗殺されたため、以降、嘉右衛門は人のために占うことをやめたと言われています。
 嘉右衛門は大正3年に亡くなりますが、死後、「高島易断」を名乗る占い師が大勢現れました。嘉右衛門とは全く関係ない者まで名乗っていたため、易といえば「高島易断」というイメージが定着していきます。平成に入り登録商標を認めるよう裁判が起こされていますが、すでに誰でも使う一般名詞であるとして棄却されたそうです。



 



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高島嘉右衛門の墓
 

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| 明治・大正時代 | 23:18 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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