烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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最福寺の資料館「夢の実現堂」

 最福寺境内にある資料館「夢の実現堂」には、町内遺跡発掘品や、幕末の三舟(海舟・泥舟・鉄舟)の書等が展示され、また、日本のカラー写真の生みの親である土肥(小下田の隣り)出身の長口宮吉の写真、著書等も展示されています。そして当地出身で近代碁の創始者として2006年に囲碁殿堂入りした14世本因坊秀和の資料も数多く展示されていました。
 なお、「夢の実現堂」は普段は鍵がかけられていて、お寺の方にお願いすると開けて下さり色々説明していただけます。

夢の実現堂
夢の実現堂

 本因坊秀和は、文政3年(1820) に最福寺の隣りにある土屋家で生まれ、9歳の時に本因坊丈和の門人となります。
 天保9年(1838)に丈和が名人碁所を引退し、先代元丈の子の丈策が家督を継ぐと、秀和はその跡目となり、御城碁にも出仕しています。
 天保11年には、名人碁所を狙う井上幻庵因碩の争碁の相手として指名され、初戦を勝利。幻庵は病もあり、名人碁所就任断念に追い込まれています。
 嘉永元年(1848)に丈策死去により十四世本因坊となると、跡目を安田秀策に定め、安政6年(1859)には、幕府に名人碁所就任願いを出していますが、幕末の混乱を理由に却下。文久2年(1862)に跡目秀策がコレラに感染して亡くなったため、長男の秀悦を新たな跡目と定め明治維新を迎えます。

秀和に関する資料
秀和に関する資料

 明治維新により幕府の後ろ盾を失った本因坊家は、本所相生町の邸宅を借家としますが、その借家が火元で邸宅が全焼、倉庫で雨露をしのぐという苦しい生活に追い込まれています。明治4年(1871)には家禄奉還となり、さらに経済的に困窮する中、明治6年(1873)に死去。
 秀和は名人の実力がありながら名人になれなかった元丈、知得、幻庵因碩とともに囲碁四哲と称されています。

展示物
展示物

 資料館には、今回の取材の旅のスタート地点であった名古屋で顕彰碑を紹介した稲垣兼健太郎の初段免状のコピーが展示されていました。稲垣兼健太郎は、秀和の門人です。

秀和による稲垣兼健太郎の初段免状(コピー)
秀和による稲垣兼健太郎の初段免状(コピー)

 本因坊門下の強豪、白木助右衛門へ宛てた秀策死亡を知らせる手紙のコピーも展示されていました。

白木助右衛門へ宛てた秀策死亡の手紙
白木助右衛門へ宛てた秀策死亡の手紙

 資料館に戦国武将・武田信玄が家臣に書いたお金を借りた証文が展示されています。高坂弾正、穴山梅雪と並び名が記された土屋右(衛)門尉こそ、本因坊秀和の生まれた土屋家の先祖だそうです。
 土屋右衛門尉こと土屋昌恒は武田家の譜代家老衆の一人で、武田勝頼が家臣の小山田信茂の裏切りで自害を覚悟したとき、その時間を稼ぐために織田勢と戦い討ち死にしています。徳川家臣の大久保忠教は忠恒の活躍を賞賛したとの記録も残っています。下小田の土屋家は、武田家滅亡後、土屋昌恒の次男喜盈が落ち延び、隠れ住んだのがルーツと言われ、秀和の生まれた家は、その中の分家の一つだそうです。

武田信玄の家臣への手紙
武田信玄の証文

静岡県伊豆市小下田1667
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