烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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由比正雪の首塚 菩提樹院

 静岡市葵区沓谷にある臨済宗 妙心寺派の「菩提樹院」は、養老5年(721)に北側辺に創建された寺院で、後に駿河国分尼寺国分尼寺の法灯を受け継いだ後継寺院でもあったと伝えられています。
 寺伝によると、菩提樹院は武田氏の駿河侵攻で焼失。そして天正年間(1573~1592)に寺町(現在の常磐公園付近)に再建(駿府城築城のための移転という話も)されますが、昭和15年(1940)の大火で焼失し、現在地に再移転しています。

菩提樹院
菩提樹院

 菩提樹院の境内には「伝駿河国分寺の塔心礎」があります。
 石に刻まれた銘文によれば、明和8年(1771)に、当時の駿府城代武田越前守信村により三ノ丸の城代屋敷内にあった社の手水鉢として転用、奉納されたそうで、その際に、水溜めにするため円形の孔を現在の楕円形の大きさに拡げたそうです。
 昭和5年(1930)に、三ノ丸跡に建てられた日本赤十字社静岡支部の庭(現県総合福祉会館)で発見され、昭和28年に菩提樹院へ寄進されています。

駿河国分寺の塔心礎
駿河国分寺の塔心礎

 菩提樹院の境内に、由比正雪の首塚と伝わる五輪塔があります。
 由比正雪は慶長10年(1605)、駿河国由井(静岡市清水区由比)の紺屋の家に生まれ(諸説あり)、江戸で楠木正成の子孫を称する楠木正虎の子、楠木不伝に軍学を学び、その婿養子となると、軍学塾「張孔堂」を開き、3000人もの門弟に軍学を教えています。
 当時、多くの大名家が幕府により取り潰され、浪人の増大が大きな社会問題となっていましたが、正雪は、幕府の政策を批判し、慶安4年(1651)、第3代将軍徳川家光が亡くなり、11歳の徳川家綱が新将軍となると、浪人の救済を掲げ、宝蔵院流の槍術家丸橋忠弥、金井半兵衛らと共に浪人を集め各地で挙兵し、幕府を転覆する計画を立てます。計画は実行寸前で、密告により露見。正雪は駿府の宿に滞在中、町奉行の捕り方に囲まれ自刃しています。この騒動は「慶安の変」または「由井正雪の乱」と呼ばれています。
 斬首された正雪の首は安倍川の河原で、さらし首とされていましたが、縁者により密かに運び出され菩提樹院に葬ったと言われています。

由比正雪の首塚
由比正雪の首塚

 由比正雪の計画が露見したのは、一味に加わっていた奥村八左衛門の密告によるものと言われていますが、後に描かれた物語では、その理由として奥村が丸橋忠弥と碁を打っていたときに正雪が色々と口を出したことに腹を立てて裏切ったという話もあります。

由比正雪像
由比正雪像

 首塚の脇には、正雪の辞世の句碑が建立されています。

 「秋はただ なれし世にさえもの憂きに 長き門出の 心とどむな 長き門出の 心とどむな」

辞世の句碑
辞世の句碑

静岡県静岡市葵区沓谷1344−4
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