烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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築山御前の廟堂 西来院

 静岡県浜松市の中区にある西来院(せいらいいん)には、徳川家康の正室・築山御前の廟堂があります。築山御前は、今川家の一門、関口義広の娘で母は今川義元の妹。今川家の人質だった松平元信(後の家康)と結婚し、家康の長男信康と、囲碁界とも関わり深い奥平信昌へ嫁ぐ亀姫を生んでいます。

西来院
西来院

 浜松城へ家康が移ると嫡男信康は岡崎城を任され、築山御前も岡崎へ留まります。しかし、信康母子は、織田信長より武田氏に内通しているとの嫌疑をかけられ、信康は切腹。築山御前は浜松へ向かう途中に家康の命令を受けた家臣により殺害され、西来院に葬られたそうです。
 なお、信康母子の殺害は信長による命令というのが通説ですが、近年の研究では家康と信康との対立が原因という説も唱えられています。信長は「信康の処分は家康の思うとおりにすればよい」と言っただけで、処刑は徳川方の意向だったという説です。そのため江戸時代には信康母子殺害を正当化するため、築山御前は傲慢で嫉妬深い女性だったと語られています。

築山御前の廟堂
築山御前の廟堂

 築山御前の墓の横には家康の異父弟のひさまつ松平(久松)康俊の墓があります。尾張国知多郡の坂部城主・久松俊勝の三男で、母親は家康の生母、伝通院(於大の方)です。伝通院は尾張国知多郡の豪族・水野忠政の娘で、岡崎城主・松平広忠へ嫁ぎ、家康を生みますが、実家の水野家が今川方から織田方へ寝返ったために離縁。その後、久松俊勝へ嫁いでいます。
 松平康俊は永禄6年(1563)、今川氏真の人質として駿河国に赴きますが、武田信玄の侵攻により甲斐へ送られています。元亀元年(1570)の冬、家康の手配により甲斐から逃亡しますが、この時東照により両足の指を失ってしまったといいます。
 家康は康俊を可愛がり、天正11年(1583)には駿河の久能城が与えられますが、3年後に死亡。享年35歳でした。

松平康俊の墓
松平康俊の墓

静岡県浜松市中区広沢2丁目10-1
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