烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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第31代横綱 常の花出(羽海秀光)

 第31代横綱常ノ花寛市(本名:山野辺 寛一)、後の第2代日本相撲協会理事長、7代出羽海秀光の墓も谷中霊園にあります。
 常ノ花寛市は、岡山県出身で出羽ノ海部屋に入門し明治43年(1910 )に初土俵。軽量であり当初はあまり期待されていませんでしたが厳しい稽古を繰り返し、大正9年(1920)に大関に昇進。その後、当時は横綱が複数いたため十分な実績にも関わらず横綱昇進が見送られ苦労しましたが大正13年(1924)に、ついに第31代横綱となり、大関時代も含め幕内最高優勝10回の実績を残しています。なお、前回紹介した同門の先輩横綱栃木山守也が大正14年(1925)に3連覇を果たしながら翌場所直前に突然引退したのは、優勝しながら常の花が正横綱のままで栃木山が張出に据え置かれた事への反発とも言われています。
 昭和5年(1930)に常の花は突然引退を発表し年寄・藤島を襲名。昭和7年(1932)に協会改革を訴え発生した春秋園事件では、協会の使者として力士側との折衝にあたり、事件収拾に尽力。その後、事件の引責辞任で協会幹部が退くと、春日野・立浪・錦島と共に取締に就任しています。
 昭和19年(1944)には元力士としては初の相撲協会理事長に就任。後に出羽海を襲名し部屋を継承しています。
 蔵前国技館建設など、戦後の大相撲復興の基盤を築いた出羽海ですが、昭和32年(1957)に国会で日本相撲協会の在り方が追及され、その対応に神経をすり減らしたのか自殺未遂を起こして理事長を退任します。
 この後も協会で隠然たる影響力を保ちながら部屋の力士の育成に力を注いでいた出羽海でしたが、昭和35年(1960)九州場所(11月場所)千秋楽翌日に滞在していた旅館で胃潰瘍のため急死しています。
 谷中霊園の墓に刻まれた戒名には、「国技院釈常花居士」と刻まれています。

常の花の墓
常の花の墓

出羽海秀光之碑
出羽海秀光之碑

谷中霊園乙13号右4側
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