烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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本居宣長の(義理の)子孫 本居豊穎、本居長世

 江戸時代後期の国学者で、「古事記伝」などを著した本居宣長は、実子の本居春庭が失明したために家督を養子の本居大平に譲ります。
 ただ、春庭も国学者、国語学者として活躍し、本居家は二つの家系に分かれています。
 本居宣長に家督を譲られた大平は、宣長が一時、紀州家に仕えていた事もあり紀州徳川家に仕える事となります。本居大平は実子が相次いで早世したため本居内遠を養子として迎えます。
 本居内遠の息子で宣長から四代目の当主、本居豊穎は紀州藩の藩学古学館の教授を務めた後、明治維新後は国学者として東京帝国大学・国学院・東京女子高等師範学校などの講師として活躍。皇太子(大正天皇)の東宮侍講も勤め、明治42年(1909)に文学博士号が授与されています。大正2年(1913)に脳溢血で亡くなり谷中霊園に葬られています。

本居豊穎の墓
本居豊穎の墓

 谷中霊園にある本居豊穎の墓の脇にある「本居家之墓」に豊穎の孫で、六代目当主の本居長世の名が刻まれています。
 長世は祖父に育てられたものの国学者の道は選ばず、音楽家を志し、明治41年(1908)に東京音楽学校本科を首席で卒業。同校でピアノ科助教授などを務める一方、宮城道雄らと共に新日本音楽運動に参加し、洋楽と邦楽の融合を模索します。
 当時、鈴木三重吉による児童雑誌『赤い鳥』が創刊され、「童謡」という新しいジャンルが確立され、長世も斎藤佐次郎による児童雑誌『金の船』などに作品を発表。野口雨情等と組んで、『七つの子』『青い眼の人形』『赤い靴』など、現在でも歌い継がれている名局を世に送り出しています。

本居家之墓
本居家之墓

 「本居家之墓」には本居長世以外に詩人の菱山修三の名も刻まれています。修三は長世の娘婿で本名は本居雷章。フランスの詩人ヴァレリーの影響をうけ,昭和6年に第1詩集「懸崖(けんがい)」を刊行。「ヴァレリー全詩集」などの翻訳なども手掛けています。

本居長世、菱山修三の名
本居長世、菱山修三の名

谷中霊園乙10号左4側
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