烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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清水組歴代社長

 谷中霊園にスーパーゼネコンの一つ、清水建設の前身である「清水組」2代目社長・二代清水喜助、3代目社長・初代清水満之助の墓所と、別の場所に5代目社長・清水釘吉の墓があります。
 清水組は文化元年(1804)に越中富山の大工であった初代清水喜助が「清水屋」として江戸の神田で創業。焼失した江戸城西の丸の再建工事に参加したのが縁で彦根藩などの御用達となり名字帯刀を許されます。そして横浜の外国奉行所建設を請負い洋風建築技術を習得していきます。
 二代喜助は初代の弟子で、後にその娘婿となります。初代と共に横浜で外国人技術者より設計技術を学んだ二代喜助は、初代の死後、会社を引き継ぎ、明治元年(1868)に、わが国初の本格的洋風ホテル「築地ホテル」、明治5年(1872)には「三井組ハウス」(第一国立銀行)など擬洋風建築を数多く手掛け、これらの建物は文明開化の象徴として多くの見物客で賑ったといいます。
 なお、二代喜助が飛躍するきっかけとなった「三井組ハウス」の建設をはじめ、清水組は越後屋三井家から多くの工事を受注していますが、その始まりは、以前に囲碁の奇才・中山善吉の碑がある、三井家が庇護していた三囲神社の内社殿を造営したからだそうです。二代喜助は三井家の紹介で「日本の資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一とも親交を深めています。
 二代清水喜助の墓所には、正面に喜助と並んで、清水満之助と清水武治の墓があります。満之助は二代喜助の嗣養子で3代目社長となり、武治は喜助の婿養子です。二代喜助の時代、満之助は二代喜助も任された横浜店を受け持ち、武治は東京を管理。喜助が全体を総括していたそうです。
 二代喜助の死後、商才に優れた清水満之助が跡を継ぎ、武治は分家として東京の店舗を経営します。満之助は横浜の開発による経験から土木事業にも手を広げる一方、社内では賞与制度の導入や会計制度の改革など、経営の近代化に取り組みましたが社長となって僅か6年で病死。跡を継いだ息子の二代目満之助は、父の遺言により渋沢栄一を相談役に迎え指導を仰ぎます。渋沢は東京帝国大学から優秀な人材を斡旋するなど会社の発展に大きく貢献したそうで、二代目満之助は、その感謝の念から、以前紹介した飛鳥山の渋沢栄一の別邸に西洋式木造茶席「晩香廬」を寄贈しています。

清水家墓所
清水家墓所(右から二代清水喜助、清水武治、初代清水満之助)

二代目・清水喜之助の墓
二代目・清水喜之助の墓

 二代目満之助の墓は谷中霊園では確認出来ませんでしたが、別の場所に清水組5代目社長・清水釘吉の墓があります。釘吉は二代目満之助の娘婿で義父の経営を支え清水組継承後は合資会社清水組を設立し、後に株式会社としています。墓は確認出来ませんでしたが釘吉の長男、康雄は義父の二代目満之助の養子となり清水組の社長を継承しています。

五代目・清水釘吉の墓
五代目・清水釘吉の墓

 清水釘吉の墓所にある釘吉の顕彰碑は、清水家とも関わりが深い渋沢栄一の後継者で孫の渋沢恵三によるものです。

清水釘吉翁の碑
清水釘吉翁の碑

谷中霊園
 二代清水喜助・初代清水満之助 : 甲3号4側。
 清水釘吉 : 甲9号13側 
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| 明治・大正時代 | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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