烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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大雄寺 高橋泥舟の墓

 台東区谷中にある大雄寺に、勝海舟、山岡鉄舟と並び「幕末の三舟」と呼ばれた高橋泥舟の墓があります。
 高橋泥舟は天保六年、旗本・山岡正業の次男として生まれ母方の高橋家の養子となります。山岡家は槍の自得院流の名家で兄の山岡静山の下で修行した泥舟は、海内無双、神業に達したと評される達人となります。なお、山岡家は静山が早世したため門人の小野鉄太郎を婿養子に迎えますが、鉄太郎こそ三舟の一人、山岡鉄舟です。
 泥舟は、21歳で幕府講武所槍術教授方出役、槍術師範役を歴任し、文久3年(1863)に一橋慶喜に随行して上京。従五位下伊勢守を叙任します。慶応4年(1868)、鳥羽伏見の敗戦により江戸へ退却した将軍・慶喜に泥舟は恭順を説き、江戸城から上野東叡山へ退去する慶喜の護衛を務めます。幕府の全権を任された勝海舟は官軍の西郷隆盛への使者を、誠実剛毅な人柄を見込んで泥舟に依頼しようとしましたが、慶喜から親身に頼られていた泥舟は主君の側を離れるわけにはいかず、代わりに義弟の山岡鉄舟を推薦し、鉄舟がその大役を見事に果たしたそうです。
 慶喜が江戸から静岡に移住するのに従い、地方奉行などを務めた泥舟は、廃藩置県後に職を辞し東京に隠棲、書画骨董の鑑定などで後半生を送っています。明治新政府からは任官の誘いがあったものの慶喜が失脚しているのに自分が官職について出世する事は出来ないと拒否したと言われています。
 また、義弟の鉄舟が没した際、山岡家にはかなりの借金があったそうで、泥舟はその返済を引き受け、金貸しに借金を申し込みますが「担保は何か」と聞かれ、「わしの顔が担保だ」と返答したそうです。これに対して金貸しは「泥舟先生がおっしゃるなら」と借金の全額を引き受けたという逸話が残されています。
 高橋泥舟は明治36年(1903)に69歳の生涯を閉じ大雄寺に葬られています。

大雄寺入口
大雄寺入口

本堂
本堂

高橋泥舟の墓
高橋泥舟の墓

台東区谷中6-1-26
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| 幕末・明治維新 | 09:41 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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