烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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日本舞踊花柳流 初代花柳壽輔の墓

 日本舞踊では最大の流派「花柳流」の創始者、初代花柳壽輔の墓が谷中霊園にあります。
 初代花柳壽輔は、文政4年(1821)、に生まれ、4歳の頃に吉原の仕出し屋「魚吉」を営む鶴間吉五郎の養子となります。
 6歳から日本舞踊の西川流家元、四代目西川扇蔵に師事し、西川芳松と名乗りますが、七代目市川團十郎に見込まれて役者へ転身。実家の「魚吉」にちなみ市川鯉吉と名乗ります。しかし、養父・吉五郎が亡くなり、一家を支えるため役者の道を断念。扇藏の元に戻り、西川芳次郎を名乗り、舞踊家として身を立てることとなります。
 天保11年(1840)、五代目市川海老蔵を襲名した七代目團十郎による『勧進帳』の初演が行われていますが、その際、芳次郎は扇藏の助手として振り付けに関わったとされ、以降、海老蔵ら一流の役者達に見込まれ振付師として活躍しています。
 いつしか芳次郎は西川流の跡継ぎと見込まるようになりますが、弘化2年(1845)に師匠の扇藏が亡くなると、西川巳之助(後の五代目西川扇藏)ら兄弟子との間で争いとなり芳次郎は西川流を破門されてしまいます。
 破門となった芳次郎は、吉原に戻り、芸妓に舞踊を教えて暮らしていたといわれますが、嘉永元年(1848)の中村座公演にて、「花柳芳次郎」の名で振付師として復活します。「花柳」とは、芳次郎の支援者であった吉原の遊女屋主人、玉屋山三郎の雅号だったそうです。その後、十二代目市村羽左衛門、四代目中村歌右衛門ら芳次郎を高く評価する、かつて縁のあった役者たちの後ろ盾を得て活躍の場を広げた芳次郎は、「天保の改革」により江戸を追放されていた七代目市川團十郎(当時は幡谷重蔵)が戻った事もあり江戸三座全てで振付をつとめるようになります。 芳次郎は重蔵より俳号「壽海老人」から一字を贈られ、「花柳壽助」と名乗り、後に「花柳壽輔」に改めています。以降、花柳流家元は「花柳壽輔」の名を襲名しています。
 振付師としての地位を築いた壽輔は、舞台の改革に取り組み、ひとつの芝居における全振付、音楽や演出などを全て一人で請け負います。当時は役者ごとに異なる流派の振付師がつくこともあったそうで、舞台の一貫性を生み出すための改革でした。
 明治以降、九代目市川團十郎と、舞台の表現を巡って対立して一時衰退したものの明治座の専属振付師として初代市川左團次らの振付を行うなど、再び勢力を盛り返した壽輔は明治36年(1903)に83歳で亡くなっています。
 花柳流はその後、初代花柳壽輔の次男芳三郎が二代目花柳壽輔を継承し、日本舞踊最大の流派へと成長していきます。
 しかし、最近では3代目の後継候補だった花柳貴彦氏を4代目花柳壽輔氏が除名処分としたものの、裁判で貴彦氏の除名が無効とされるなど、お家騒動ばかりが目立っていて、この子孫たちの争いを初代花柳壽輔はどう思っているのでしょうか。

花柳家の墓
花柳家の墓

初代花柳壽輔の碑
初代花柳壽輔の碑

谷中霊園 甲3号7側
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| 明治・大正時代 | 07:13 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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