烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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雲井龍雄の墓表と相馬大作の碑

 以前、谷中霊園にある「新派」の創始者・川上音二郎の銅像の台座について紹介しましたが、その隣りに幕末の志士・雲井龍雄の墓表と、江戸時代に発生した大名暗殺未遂事件「相馬大作事件」の首謀者、相馬大作の碑がありました。

 雲井瀧雄は米沢出身の幕末の志士で、桂小五郎らも門下生であった儒学者・安井息軒の私塾「三計塾」で塾頭を務めています。
 幕末の混乱期に大政奉還実現に向けて活躍しますが、戊辰戦争では薩長の横暴を非難する漢詩「討薩檄」を作成し米沢での謹慎処分を受けています。
 明治2年に新政府の立法機関である集議院議員に選ばれたものの、戊辰戦争時の行動を問題しされ辞職。
 その後、旧幕臣達の帰順を嘆願する活動を行いますが、それが政府転覆を企む謀反とみなされ逮捕。小伝馬町にて処刑されています。
 雲井は漢詩の才能にも恵まれ、その詩集は明治時代の自由民権運動の活動家達が愛読し、影響を与えています。
 雲井龍雄の首は、当初、小塚原回向院に葬られましたが、明治16年(1883)に、谷中の天王寺に改葬されます。墓表はその時のものと思われます。しかし、遺骨は昭和5年(1930)に故郷米沢の常安寺に再改葬されます。現在、墓は回向院、谷中霊園、常安寺の三ヶ所に存在しますが、遺骨があるのは常安寺の墓だけだそうです。

雲井龍雄の墓表
雲井龍雄の墓表

 相馬大作については以前、小塚原回向院の供養碑について紹介していますが、本名は下斗米秀之進といい剣の達人として知られた盛岡藩士でした。盛岡藩・南部氏と隣国の弘前藩・津軽氏は元は同族であったものの、戦国時代末期に津軽氏が南部氏の領内に侵攻し津軽地方を平定した事から立藩以来犬猿の仲だったそうです。
 文政3年(1821)に盛岡藩主南部利敬が39歳の若さで亡くなると、藩内では弘前藩に対する積年の鬱憤が原因だという話が広まります。また、跡を継いだ14歳の利用は無位無官であったのに対して、津軽寧親は従四位下侍従に叙任されていたため、不満を抱いた秀之進たちにより寧親の暗殺計画が練られます。
 計画は文政4年(1821)に参勤交代を終えて帰国する途中の寧親を秋田藩白沢駅(大館市)付近で狙撃するというものでしたが仲間の密告によって発覚。秀之進は「相馬大作」と名を変えて逃走しますが、江戸で幕府により捕らえられ翌年処刑されます。ただ、騒動により寧親は隠居に追い込まれ、結果的に秀之進の目的は達成されたとも言えます。
 事件は当時、赤穂浪士の再来として騒ぎ立てられ、講談や小説・映画などで採り上げられています。そして西郷隆盛や橋本左内の師である水戸藩の藤田東湖はその義烈をたたえ、吉田松陰も長歌を詠じて秀之進を追慕する等、幕末の尊王攘夷運動にも少なからず影響を与えています。
 谷中霊園の碑は歌舞伎役者の初代市川右團次が、相馬大作を演じて評判を取り、明治15年(1882)に建立したものだそうです。

相馬大作の碑
相馬大作の招魂碑

雲井龍雄の墓表 : 谷中霊園甲2号4側
相馬大作の招魂碑 : 谷中霊園甲2号5側
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