烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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老中・阿部正弘の墓

 谷中霊園渋沢栄一墓の北側に、塀で囲まれた一画があり、入口の前に管理事務所がありますが、ここは寛永寺徳川家墓地で、入場時間以外は鍵がかかっています。その一番奥にあるのが備後福山藩・阿部家の墓所です。

阿部家の墓所
阿部家の墓所

 初代の阿部正邦は岩槻藩主・阿部定高の次男として生まれ、寛文11年(1671)、14歳の時に藩主となります。
 その後、天和元年(1681)に丹後宮津藩、元禄10年(1697)に下野宇都宮藩と度々領地が変わり、宝永7年(1710)53歳の時に、備後福山藩の藩主となります。旧領から遠く離れた移封に戸惑いながらも、領内の掌握と諸制度の整備に尽力した正邦は転封から5年後の正徳5年(1715)に亡くなりますが、以後、阿部氏は福山藩を廃藩置県まで10代161年間統治。西国の有力譜代大名として老中を4人、大坂城代を1人輩出しています。

初代・阿部正邦の墓
初代・阿部正邦の墓

 福山藩・阿部家の中で最も有名な藩主と言ったら、幕末の激動期に老中首座を務め、日米和親条約を締結した7代藩主・阿部正弘でしょう。
 阿部正弘は、天保14年(1843)、25歳で老中となっていますが、当時天保の改革が行き詰まり失脚した水野忠邦が江戸城本丸焼失や外交問題により老中首座に復権する事に反対。結局、水野は復帰しますが、「水野の三羽烏」と呼ばれた側近の鳥居耀蔵、後藤三右衛門、渋川敬直は改革失敗の責任を問われ処罰されます。この時、失脚した渋川敬直は二代目安井算哲こと初代天文方渋川春海を祖とする天文方・渋川家の9代目当主・渋川景佑の嫡男でした。
 その後、再び罷免された水野忠邦に変わり首座となった阿部正弘は、度重なる外国船の来航や「アヘン戦争」勃発など外交問題の深刻化を憂慮し、薩摩藩の島津斉彬や水戸藩の徳川斉昭ら諸大名に幅広く意見を求める一方、江川英龍、ジョン万次郎、岩瀬忠震ら有能な人材を登用しています。
 しかし、諸大名に幅広く意見を求めた事か諸大名の発言力を増す結果となり、ペリー艦隊来航による日米和親条約締結で攘夷派と開国派の融和を図るため老中首座を退いています。
 阿部正弘は安政4年(1857)に老中在任のまま39歳で急死していますが、将軍継嗣問題では一橋慶喜を推していたと言われ、もしそのまま生きていたらその後の歴史も変わっていたかもしれません。

阿部正弘の墓
阿部正弘の墓

大正天皇がお参りされた記念碑
大正天皇がお参りされた記念碑

東京都台東区谷中 谷中霊園 寛永寺徳川家墓地
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