烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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高輪接遇所跡

 泉岳寺の前にある「泉岳寺前児童公園」は、碑などはありませんが幕末から明治初期にかけて「高輪接遇所」と呼ばれたイギリス公使館があった場所です。
 安政5年(1858)に日米修好通商条約が締結されると、日本は西欧諸国とも同様の条約を結び江戸に各国の領事館が出来ます。
 イギリスは安政6年に高輪の東禅寺に領事館を開設し、その後、公使館となりました。しかし、文久元年(1861)には、水戸藩脱藩の攘夷派浪士による襲撃。翌年には東禅寺警備の松本藩士によるイギリス兵2人の斬殺と、「東禅寺事件」と呼ばれる襲撃事件が発生し、公使館は、いったん横浜へ移されます。その後、幕府により品川御殿山に公使館が建設されますが、完成直前の文久2年(1863)に長州藩の高杉晋作や久坂玄瑞らによる「英国公使館焼き討ち事件」により断念します。
 その後、イギリスは泉岳寺を公使館とするように要求しますが、話し合いの結果、慶応2年(1866)に泉岳寺門前に公使館を建設します。この時、公使館が再び襲撃されるのを避けるため名称を「高輪接遇所」としたそうです。




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「高輪接遇所跡」(泉岳寺前児童公園)



                         
 「高輪接遇所」では明治2年に「高輪談判」と呼ばれる会談が行われています。三条実美ら明治政府首脳とイギリス・フランス・アメリカ・イタリア・ドイツの5ヶ国の駐日公使による会談です。当時、各藩が戊辰戦争の軍費調達等のため贋貨を鋳造し、大量に流通させたため経済に影響を及ぼしていました。日本は会談で贋貨の回収と近代貨幣制度の導入を国際公約するとともに、外国人の抱えた贋貨の正貨への等価交換を保証しています。この会議が新貨幣発行や造幣局の設置のきっかけとなったと言われています。
 なお、各国との事前交渉や通貨改革への取り組みは大隈重信の主導で行われています。「高輪談判」が行われる前、大隈は各国との交渉を行う一方、貨幣改革案をとりまとめますが、大久保利通が反対します。討幕後も薩摩藩や土佐藩が贋貨鋳造に関わっていたため新政府の信用が失墜するのを恐れての事です。大隈は追い詰められますが、病に倒れていた木戸孝允の説得により大久保は事の重大さを認識し改革案を了承しました。薩摩藩は自らが建白書を提出し事実を明らかにしたことにより処分を免れています。




泉岳寺前児童公園 : 東京都港区高輪2丁目15-37




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