烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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田沼意次の墓 勝林寺

 駒込にある勝林寺には将軍徳川家重、家治に重用され、権勢をほしいままにした老中田沼意次の墓があります。
 田沼の父で紀州藩の足軽であった田沼意行は紀州藩主、徳川吉宗が将軍に就任した事により江戸に出て旗本となります。
 意次は吉宗の後継者である家重の小姓として仕え、家重が将軍に就任すると御側御用取次として頭角を現し相良1万石の大名に取り立てられます。家重の次の家治も田沼を重用し老中に昇進するとともに、領地も加増され5万7,000石の大名となります。
 田沼が幕府の実権を掌握し、様々な幕政改革を行った時期は「田沼時代」と呼ばれています。その政策は悪化する幕府の財政赤字を食い止めるための重商主義で、株仲間の結成、銅座などの専売制、鉱山の開発などを行っています。
 田沼の政策は現在の資本主義にも通じる先進的なものでしたが、金銭中心の社会では贈収賄が横行することとなり、農村では、利益の薄い農業を農民が放棄し、都市部へ流入するという事態を招きます。
 都市部の治安の悪化や、一揆の発生、一方で江戸商人への優遇により、次第に田沼政治への批判が集まっていく中、天明4年(1784)に息子で若年寄の田沼意知が江戸城内で暗殺されたことを契機に権勢が衰え始め、天明6年(1786)に将軍家治が亡くなった直後に失脚。厳封の上、財産の一部が没収され、孫で後継者の田沼意明は陸奥下村藩1万石に減移封となるなど徹底した粛清を受け失意のうち、天明8年(1788)に死去。享年70でした。

勝林寺
勝林寺

田沼意次の墓
田沼意次の墓

 田沼意次の墓の隣りには、田沼家累代の墓がありますが、意次の父である田沼意行以降の墓のようです。
 女性の墓は意行や意次の夫人の名前もあるようです。

田沼家累代の墓
田沼家累代の墓

田沼家の女性の墓
田沼家の女性の墓

豊島区駒込7-4-14
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