烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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北条義時の法華堂跡と三浦泰時一族の墓

 以前、鎌倉の源頼朝の墓の東隣にある、大江広元・毛利季光・島津忠久の墓へ向かう途中に、二代執権、北条義時のものとされる法華堂(墓)跡が発掘されています。
 北条義時は、初代執権、北条時政の次男で、畠山重忠の乱を機に父時政を追放した後は北条宗家による執権政治体制の強化に尽力しています。

大江広元らの墓へ向かう道
大江広元らの墓へ向かう道

法華堂跡の説明板
法華堂跡の説明板

 北条義時の法華堂跡の山裾に、宝治合戦で敗れた三浦泰村一族を葬ったとされる「やぐら」が残されています。
 大江広元や北条政子の死後、執権北条得宗家による政治の独占に不満を募らせた勢力は、北条氏に対抗し得る有力御家人・三浦氏の元に結集し北条得宗家との対立を深めていきます。
 両勢力は和解の道を探り続けていましたが、宝治元年(1247)に執権側の強硬派である安達景盛が三浦氏の屋敷を急襲。「宝治合戦」と呼ばれる内乱が勃発します。
 御家人達が続々と両陣営に駆けつけ混乱する中、三浦氏は頼朝の墓である法華堂へ集結しますが、劣勢にたたされ自刃し三浦氏は滅亡しています。

三浦泰時一族の墓
三浦泰時一族の墓

【関連記事】
大江広元・毛利季光・島津忠久の墓

神奈川県鎌倉市西御門2丁目7−9付近
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