烏鷺光一の「囲碁と歴史」

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

| スポンサー広告 | --:-- | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

新吉原花園池(弁天池)跡

 江戸時代初期はこの付近は湿地帯で、多くの池が点在していました。明暦3年(1657)に発生した「明暦の大火」を受けて幕府は、湿地の一部を埋立て吉原遊廓を移転させます。
 遊廓が造成された際、池の一部が残され、いつしかその池畔に弁天祠が祀られた事から、池は花園池・弁天池と呼ばれ、人々の信仰をあつめています。現在では吉原神社に合祀され浅草七福神の一社として、毎年正月に多くの参拝者が訪れています。

新吉原花園池(弁天池)跡
新吉原花園池(弁天池)跡

弁天祠
弁財天の絵が壁に施された弁天祠

 大正12年に発生した関東大震災では多くの人々がこの池に逃れ、490人が溺死したと言われています。弁天祠付近の築山に建立された観音像は、溺死した人々の供養のため大正15年に造立された「大震火災殃死者追悼紀念碑」です。なお、池は昭和34年に現在のNTT東日本吉原ビルの建設に伴い埋立てられ、わずかにその名残を留めるのみとなっています。

大震火災殃死者追悼紀念碑
大震火災殃死者追悼紀念碑

 江戸時代、唯一の幕府公認の遊郭であった新吉原は繁栄を極め、江戸文化の情報発信地としての役割を担っていましたが、昭和33年の「売春防止法」成立によっりその歴史を閉じます。
 「花吉原名残碑」は、かつての繁栄を伝えるため昭和35年に有志によって建てられたものだそうです。

花吉原名残碑
花吉原名残碑

遊女の墓
遊女の墓

台東区千束3-22

スポンサーサイト

| 歴史あれこれ | 07:00 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

COMMENT















非公開コメント

PREV | PAGE-SELECT | NEXT

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。