烏鷺光一の「囲碁と歴史」

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丈和を支援した戸谷半兵衛光寿(戸谷双烏)

 戸谷半兵衛は、江戸時代に本庄宿で太物、小間物、荒物などを商う「中屋」を経営していた豪商です。当主は代々戸谷半兵衛を襲名していましたが、屋号にちなんで中屋半兵衛とも呼ばれていました。
 全国的に名の知れた商人で、江戸の日本橋近くに支店「島屋」を持ち、京都にも支店があったそうです。また、商売だけでなく、慈善事業を行ったり文人の支援にも力を入れていました。
 戸谷半兵衛は、大名へも多額の貸し金を行っていましたが、その返済が滞ったため、四代目光敬の頃(安政5年頃)には、幕府への御用金納入に支障をきたし家財闕所等の処分を受けます。ただ、その後も商売を続け明治期には回復しています。
 その「中屋」を最も隆盛に導いた三代目戸谷半兵衛光寿の墓がある安養院へお参りしました。
 光寿は父の死亡により2歳で家業を継承、祖父と義父の後見により商才を開花させ莫大な財力を蓄えます。
 また、文化3年(1806)には公儀へ融通金千両、文化13年(1816)に足尾銅山への支援で千両を上納し困窮者の救済にあたった他、様々な慈善事業を行い、名字帯刀を許されています。
 文化面では10代半ばより俳諧の才能を発揮、高桑蘭更や常世田長翠に師事し、俳号を紅蓼庵双烏と称しています。そのため光寿は通称を戸谷双烏とも言います。師匠の常世田長翠は、双烏に招かれ本庄宿に8年間滞在し、本庄宿は当時の中央俳壇の中心地となっています。
 双烏(光寿)の俳壇の門下生は、関東地方だけで数千人いたと言われ、その影響力は絶大でした。門人ではありませんでしたが小林一茶も句集の配布で光寿を頼っています。
 囲碁界においては、本因坊丈和が、まだ少年の頃、「中屋」で丁稚として働いていたそうで、光寿はその碁の才能を見抜き、江戸の島屋へ赴任させ、そこから本因坊門として学び才能を開花させています。
 一説には、伊豆木負村の魚の仲買人の家に生まれた丈和は、幼いときから碁の才能があり将来性を期待され囲碁界を背負うのにふさわしい家柄を手に入れるために光寿に預けられたとも言われています。
 丈和が公儀に提出した親類書では戸谷姓を名乗り光寿の親類として届け出されています。光寿と丈和は、丈和が本因坊となった後も交流を続け、その手紙が残されています。

安養院山門
安養院山門

戸谷家墓所
戸谷家墓所

戸谷半兵衛光寿の墓
戸谷半兵衛光寿の墓

墓石に刻まれた光寿の名
墓石に刻まれた光寿の名

戸谷半兵衛光寿の肖像
戸谷半兵衛光寿の肖像(歴史民俗資料館)


【関連記事】 本因坊丈和が働いていた島屋 「熈代勝覧」

戸谷半兵衛光寿の墓:埼玉県本庄市中央3-3-6 安養院

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